つまびく、つるのいちおん。
デストール+以蔵
ひっそりとした宮の中で、のらりくらりとデストールは槌を振り落とす。のみの尻から響いた音は、一瞬高く天井へ抜け、間延びをしながら闇へ溶ける。
消えゆく間際、無数に放置してある作り掛けの石や木枠のできそこないが、残り香を吸い取るように共鳴した。
石床へ直に腰を降ろしたデストールの横にある燭台は、巨蟹宮を照らすたった一つの灯だ。
石を砕く残響がすっかりあとかたもなくなった頃、その炎がゆらりと静かに揺らめいたことで、槌とのみを振るう手は止まった。
デストールは、口端に咥えていた灰ばかりになった煙草をつまみ、酷く形の歪んだ真鍮の平皿へ押しつけてもみ消すと、片手に握っていた槌をも手放して耳をすませる。そうしたところで、鼓膜を振動させる何かが聞こえるわけもなく、巨蟹宮は無音だった。
たった三弦で奏でる音色は、風に乗らずに夜を揺らす。
しんと潜む静寂のささいな痛みに目を細め、ゆっくりと立ちあがると、さらなる闇に満ちた宮の先へ誘われるように足を進めた。夜だけを揺らす旋律は、気まぐれだ。
気配を隠さずに赴いても、辿りつく直前でやんでしまうこともあった。まるで触れてくれるなと、唇で紡ぐかわりに。
今夜の気まぐれはどの程度かしら、とデストールは内心で独りごちるが、ゆったりとしたその歩みを急がせようとは思わなかった。
巨蟹宮を抜け、あたりをほの白く照らす光で仰いだ空には、潔くまっぷたつに割れた青月があった。常闇を照らす青白に、遥か遠く東洋の音色が、とぎれとぎれに聞こえる。
時折、聖域の闇夜に潜むこの旋律に気付いてはいても、あえて近づいて触れようとする輩は、そういなかった。
細い弦の弾きだす旋律に包まれた闇の美しさを知ることは、デストールだけが所持している特権だ。何故、その権利をつま弾く者が与えたのかと思うこともあるが、それもまた、気まぐれの一言で方がついた。気まぐれにデストールも足を踏み入れただけだったからだ。
「…うふん…今日は素敵な夜になりそうね」
通り抜け、昇る宮の分だけ高まるときめきにうっとりと笑み、デストールはまた、独りごちた。
はじめて、音につられて磨羯宮を訪れた時、ほろほろと弦に打ちおろすばちの形について「まるでジンゴの葉みたいねぇ」と、問うと、以蔵は素っ気なく「なんだそれは」と、返事をした。瞼を閉じ、浸っていた音から顔をあげ、手にしたばちの形をしばらく眺めると「ああ、イチョウか」と呟いて、それからはもう喋らなかった。帰れとも言われていないから、デストールはただ以蔵の隣へ座りこんで、音が止むまで耳を傾けていただけだったが、何度同じように訪れても、拒まれることはなかった。
奏でる所作の邪魔にならぬよう、寄り添って音色を楽しむのが、デストールは好きだ。
振り下ろされる刀の代わりに、弦にむかって打ち降ろされる腕の動きのひとつひとつは逞しい。でも、弾きだされた音の色は、儚く、時には悲嘆にむせび泣いているようにすら聞こえることがある。
今日の以蔵が奏でる音は、どちらかというと悲嘆と嵐の境目を映し出しているようだった。
嫋々と宮に響く音は、えも言われぬ美しさをあらわすものには違いない。
「あはん…やっぱりイイ音ねえ…」
嵐の隙間、一瞬の凪の儚い単音を縫って、デストールは囁きを漏らした。
「…弾くか?」
以蔵は、珍しく旋律を切り、答える。
「いいわ。アタシ今日は持ってきてないもの」
「たまには他の誰かの音色を聞きたい時もある」
「イヤよ。アタシは以蔵ちゃんを見てたいの」
デストールは途切れた音色を促すように、寄り添った以蔵の肩へ頭を預けた。納得がいかないとでもいいたげに、静かなため息が一つ。
ゆらりと翳したばちが一の糸を弾き、凪は再びうねりをみせる。
物珍しい東洋の音色を耳にするうち、デストールは自分でも奏でてみたくなって、以蔵に教えを乞うた。
まさか弾きたがるとは思っていなかったのか、そう告げた時以蔵は鬱陶しそうにしていたが、ものは試しにと奪って奏でてみたところ、存外デストールの手には馴染み、簡単な小唄程度は覚えることができた。どこで手にいれてきたのかは知らないが、ある晩以蔵はもう一棹の三味線をデストールによこした。明らかに他の誰かが奏でていたのだろう使いこまれたその三弦は、不思議なことに、弾けば以蔵の身体から立ち昇る香りと同じ匂いがした。
「アタシのよりも以蔵ちゃんのほうが香りが強い気がするわ」
「そうか?元は同じ木でつくった棹だと聞いていたがな」
「はあん…どうしてかしら。あたしはこのサンダルウッドの香り好きだけれど」
以蔵がつま弾く三味線の、まろみを帯びた正方形の胴と呼ばれる箱の部分と、胴から張られた糸を支える棹には白檀の木が使われている。
名前こそ知らぬものだが、以蔵の生まれた国で香木と呼ばれるその木の香りは、デストールにも馴染みのあるものだった。
「…白檀だ」
幾らか高い音をはじき出しながら、以蔵は言い直す。
「ジャパニーズではそうかもしれないけど、こっちじゃサンダルウッドっていうのよん」
デストールはいつぞや交わしたやり取りを思い出して、柔らかく微笑んだ。血が通う肌も、髪も、なにもかも、以蔵は違う。聖域にいる聖闘士の中でも、抜けるような肌の白さは随一だったし、研ぎ澄まされた眼差しを浮かべる顔の造形も体格も、引き絞られた三日月のようにどこか凛々しく、涼しげなものを所持している。だからこそ、遠い異国の東洋の血は、目立って浮き上がってしまうところもあった。
「でも、ビャクダンって…すごくそそる香り。こうしているとよくわかる」
「…実際弾いている時に香りのことなど気にしないだろう」
「まあそれもそうね。だからこそこうしてたまに嗅ぎたくなるってもんよ。いいわあ。シャミセンに、ビャクダンに、月灯り。ジャパニーズ風流ね。満月じゃないのが残念だわ」
「お前にも理解できる風流など、たかがしれてるな」
「あら、ひっどおい。アタシだって多少日本のことは知ってるつもりよっ」
シャミセン、ビャクダン、イチョウ、ヒガンバナ。それからキナガシにケイセイに、シュンカシュウトウ。
デストールが唇を尖らせ、かつて教えられた言葉を指折り数えて異を唱えると、珍しく以蔵は口元を緩め、微かに笑んだ。
半月の淡い光が、そっと夜を照らすような笑みに気づき、デストールは寄り添い、絡めた腕の力を込める。
嫋、と弾かれた一の糸が、震える。
「おい、重い」
以蔵が呟いた不機嫌の声には聞こえない振りをして、デストールは白檀の棹の上で滑らかに動かされる指先を眺める。
「…不思議よね。巻貝みたいな角に糸を巻いて、こんな不思議な音がでるなんて。たった三弦しかないのにアンタの国の人間は凄いわね」
「…褒めてもなにもでんぞ」
知ってるわ、とデストールは呟いて、いましがたまで以蔵が触れていた弦の一本へ、指を這わせた。
弦を爪弾き、奏でる楽器を知らないわけではなかったが、奏でられる音も旋律もまるで違う。デストールの知っている弦楽器の音は、清澄で神々しく、気品のある音を連なりたてるものが多かったが、三味線の音はそれに比べたら、振動するばかりの不安定で乾いた単音の連なりに聞こえる。一の糸と呼ばれる弦が、三味線特有の音の振動を起こし、それを受けて残りの二本は震えるのだと、デストールは以蔵から教えられた。
決して清澄とは言えない不安定に揺れる響き。
木の箱の中から弾かれて、奏でられる切なさとも、儚さともいえるのに、時には嵐のような激烈さに満ちた情念の音。
デストールは、まるで人の声そのもののようだと思う。
三弦を押さえ、叫びとも、喘ぎとも、すすり鳴きにも聞こえる音を奏でれば、指先をこすれ合わせる度に、強く立ち上っていく白檀の芳香。
それは極まって放つ、官能的な色香だ。
人の声を奏でる三弦に、のせるものはなんなのだろうか、何を思って爪弾いて震えるのかと、口にするのは無粋なような気がして、デストールはそっと目を閉じる。
「…三味線ってまるで人みたいね」
デストールが誰に問うでもなく口にした囁きを、以蔵が奏でた一音は掻き消した。
「…何か言ったか?」
「いいえ。なんでもないわ…アタシ、そろそろいかなくちゃ。まだ仕事残ってるのよねん」
そう言って、立ち上がったデストールへ返事をするかわりに、以蔵はほろほろと三味線を奏でる。
無言で見送る旋律を耳にしながら、中天を背にして戻った巨蟹宮で、デストールはのらりくらりとばちを振り下ろした。
「…アンタ、死んだのに死にきれないのねえ」
嫋。
弾いた弦の振動で、たった一つの蝋燭の炎がゆらりと揺らめき、デストールと相対するものの姿を映し出す。
一度は冥府へ足を踏み入れたのに、また此岸へ舞い戻ってきたものは、肩口からばっさりと袈裟懸けに一刀両断されていた。その研ぎ澄まされた刃の一撃で、絶命をしたことは明確だった。
三味線の残響が響く巨蟹宮の中で、かつて人の形をしていたものは声も無く、腕を伸ばして何かを掴みとろうとする。命をなくして掴むものなどもうなにもなく、欲しいものを叫ぶ声もなにもかも、この世には残っていないはずなのに。
デストールは、またばちを振り下ろす。
ほろりと揺れた音が、亡者の未練を包み込むようにしてその姿形をおぼろげにする。
「まだ戦いたいのぉ?…死んだのに愚かな男。でももうダメなの。アンタが敵う相手でもないし、冥界におかえり」
せめてもの餞に、一の糸の生。生が振動して共鳴する二の糸の死。
目の前で、のたうちまわるかつての人を一瞥する。
――以蔵ちゃんの三の糸はなにかしら。
デストールは傍にある早桶を憂いの目で見つめ、息を吐いた。
それからつまびいて、赤爪の弾いたつるの一音。
じょう、嫋、情。