Black capricorn day

ファサードのマリア ※R18
I keep on telling myself that its real.
And always keeping the truth its all in my mind.


クローゼットの中から適当に見繕って着ただけの服は、黒いVネックのTシャツと、ブラックスキニーだった。
黒は誰にでも無難に似合い、着こなすことができる色だと言われているが、黒い服をなにげなしに選んでしまう日は、心が疲れている時であるとも言う。
でも、何気なく選んだだけだ。たまたまクローゼットの一番手に取りやすい手前にしまってあったから、ひっつかんで着ただけだ。
シュラは、そう思う。
確かに、ここのところ連続で執務が続いていて、休みはない。休みはないが、それも自ら進んで引き受けていることだからそれは疲労の類には入らない。そもそも、連続の執務が続く最大の理由は、いつにも増してサガの負担が増えているからであって、サガの負担が増えたのは任務で赴いた先で、派手に任務を遂行したからだ。だが、小さな村の一角で、村人達を恫喝し、よくない植物を栽培していたマフィアの人間を数十人とぶっ飛ばしたら、多少、建造物の破損という余波がでるのは仕方のないことだ。任務は完璧だった。別に、悪くない。
シュラはそう思う。
でも、何事もほどほどという言葉があるようにだな、と聖域に帰ってきてからサガに溜息をつかれた時は、広い執務机の上に隙間がないほど請求書という紙と新しい依頼の紙が散らばっていた。
「任務だからな。別に悪くはない。悪くはないんだがな、シュラ。お前が思うさま暴れたのは重要な遺跡のある場所でな」
「……そんなの村の人間は一言も、」
「力で力を制さねばならない時、慎ましくひっそりと生きている人間にとっては、マフィアも私達も所詮変わらん。当事者ではない一般の者にとっては、それが自分達にとって害をなすものであろうがなかろうが、あまり関係がないということだ」
「報酬で賄えないのか?」
「報酬というよりも謝礼を貰わないで少しはみ出るぐらいだ。…まあ事前にお前に伝えておかなかった私が悪いな。アフロディーテに行かせたこの前の任務も山一個更地にした」
「す、すまん…サガ…」
「これは…あの雑誌を復刊させるべきなのだろうか。全ページ、私のオールヌード特集など執り行えば……だが、その他の依頼や報告書が…いや、いっそ、」

いっそなんなのだろう、そう問い返す前にシュラは、頭を抱えたサガを見ていることができなくなって執務をかってでていた。
そうすべきだ。
シュラはそう思った。
だから、たまたま上下ともに黒い服だからといって、今日という日が運気的についていない日であるとか、疲れがたまっていてどことなくテンションの上がらない日であるとは思わない。だが、執務へ向かうために磨羯宮から宝瓶宮へ続く階段を昇り始めた途中から、シュラは聖闘士にあるまじき行為を必死で行っている。
「ハアッ…ハッ…くっ!…な、なんで…あいつら…!…カミュ!」
全力で脚の筋肉を動かすためには、心臓から血液を身体全体に行き届かせねばならず、心臓という筋肉の塊を動かすためには酸素を取り入れなければならない。
真冬には確かに雪も降る聖域の気候であるが、乾いた冷たい空気は荒々しく気管いっぱいに吸い込むたび、シュラの喉にひりひりとした痛みを与えた。
晴れてはいるが体感温度は一桁の0にも近いような気がするのに、シュラは首筋と背中から汗が滲むのを感じる。耳元で通り過ぎる風が刺すように薄く尖った音をたてて、耳朶から熱を奪う。今、指先で触れたら確実に冷たいだろう両耳の鼓膜が捉えるのは、後方から迫ってくるドドドド、というおよそ人間の足音とは思えない足音と、何人かのはしゃいだような叫び声と好き勝手な会話だ。黒い服に滲む汗は、動いているからだけではない冷たい汗であることをシュラはひしひしと実感した。
「ちょっとさ!シュラって走り方変じゃない?あれでいいの?カミュはアレでいいの?」
「……うむ」
「ハハハハハ!シュラーー!なんで逃げるんだい?俺から逃げられると思うなよー!十年早いぞ!」
「シュラーー!許さねえ!オレの蠍座パンツ返せーー!」
「ほ。なんだ皆仲が良いのう。たまにはこういう遊びも大事じゃなーーー!」
「リア、もっと早く走りたまえ。」
「シャカ!お前自分で走れーー!!というか、なぜ俺は今走っているんだ?」
シュラはもうすぐ、巨蟹宮を全力疾走で通り過ぎる。
だが、その直前で思わず声を張り上げて後方にいるもの達に向かって叫んだ。
「わけもわからんのに混ざるんじゃねえ!アイオリアーー!パンツなんか俺は知らん!!」
「嘘つくんじゃねえ!お前のケツのポケットに挟まってんのはなんだ!?いいか!とっくにそのパンツはオレの使用済みだからな!カミュに貰ったやつな!」
「なにっ!?」
耳を切る風の音の向こうから聞こえてきた叫び声に、ハッとシュラは呻き、疾走をしながらそっとジーンズの尻の部分を探ってみる。
確か、執務へ向かうためだけだったから、尻のポケットには何も入っていないはず、と思う指先につるりとした見覚えのない手触りがある。それをおもむろに手の中に収め、確認をした。
「……けしからんパンツだな」
光沢のある黒のサテン地に、輝くラインストーンで蠍座のマークが施されているそれは、確かにけしからないスタイルの下着で、ミロの叫びの中にはシュラにとってけしからない意味がいろいろと含まれていた。
シュラが、けしからないパンツに興味がないと言えば嘘になるが、だがミロのけしからないパンツには興味がない。あまつさえそれを返せなどと言われる筋合いもなく、返せということは無断で拝借したということになる。無断で拝借をした、それはすなわち盗むという行為になるではないか。
シュラは、走る速さを緩めないまま、チラリと後方を一瞥して、手の中のパンツを投げやすく飛びやすいように小さく丸め込んだ。おそらく、先ほど一旦階段から外れて天蠍宮の裏手を廻った時に、前方にいたミロが抱えていたランドリーの袋の中に混ざっていたのだろうと思う。その時、出会いがしらにミロを蹴り倒した。飛び散る何日分かの服と、せっかく洗い立てだというのに太陽の下に干されることのなくなったタオルは、むなしく地面に落ちた。
シュラにとって、前方という行く手を防ぐミロが邪魔だったからだ。
蹴り飛ばして悪かったと思いながらも、パンツを取っただの返せだの言われるのは筋が違うと内心で言い返して、シュラはタンっと地面を蹴り、小さく跳躍をしながら振り向きざま後方へ投げ放った。一秒にも満たない滞空時間と態勢を整えて走りだすのはほぼ同時で、光速で軌道を描きながら飛んだパンツという名の弾丸が、ミロの額に命中するのも同時だった。
「いってええええ!ちょ…シュラてめーーーー逃げんじゃねえ!」
捨て台詞のような叫びが後方で小さくなっていく。捨て台詞ならぬ置き台詞になったその声から推測するに、ミロは投げ放ったパンツによって転倒したか足を止めたかのどちらかで撃墜したか。
「逃げてない!オレはなにも悪いことなどしていない!」
後方の気配を探りながらシュラは、全力で叫ぶ。
一人、減った。
「あははは!じゃあなんでシュラは悪いことも身に覚えがあることもないのに逃げてるんだい?」
だが、次の瞬間の聞きなれた底抜けに明るい笑い声と低音が案外間近で聞こえて、シュラは走りながらびくりと跳ね上がりそうになった。
「それはおま…貴方達が追いかけてくるからだ!!!」
巨蟹宮の薄暗い中で、シュラの叫びは木霊する。
反響の中でも止まらない足音が自分のものであるのか、背後の人間達のものであるのか、判断をすることができなかった。
場所は最高に悪かった。
このわけのわからない出来事に直面しているこの時分に身を置くのには、最も嫌な予感しかしない場所だった。
前方に巨蟹宮の入り口という、出口からの光が見えてくる。
逃亡者が追われて暗闇を照らす光に僅かの救済を見出す心境とはまさに、このことなのかという気になりつつも、だがシュラは、心境に反して著しく警戒をした。
何故ならば、ここは巨蟹宮である。
救済の光を目指して一直線に進んだら、そこもまた闇であるということは少なくないのだ。
「…はあ~い。逃亡者、はっけ~ん」
出口の光に浮かびあがるシルエットは、細みのパンツに片手を突っ込んで柱に寄りかかるだらしのないものだ。
シュラは、舌打ちをする。
ひらひらと嘲るように動く手のひらに、苛立ちを募らせるニヤリ笑いが浮かんでくる。
轟くような後方の足音よりも、牽制すべくは前方の敵だ。後方ではなく、真っ直ぐに前方のシルエットを睨み、シュラは叫んだ。
「デスマスク!邪魔をするな!邪魔をするなら叩っ斬る!」
だが、その叫びを聞いた前方のシルエットはあろうことか大きく両手を広げてシュラの前に立ちふさがろうとしていた。
「ほおら、いらっしゃ~い!アタシの胸に飛び込んでおいで?…黒山羊ちゃんッ」
シュラの背筋にそって鳥肌が立つのと、振り上げた聖剣を振り下ろすのはほぼ同時だった。
聖なる剣の研ぎ澄まされた斬れ味と、衝撃波を避けるために横跳びにシルエットが翻った場所をシュラは駆け抜ける。
ビュウ、と一際強く感じた寒空の風に撫でられても、シュラはまだ走ることをやめなかった。
気配と音で数える背後の人数に、また一人増える。減ったと思ったらまた増えた。
何故、と口惜しく感じた瞬間に、きり、と奥歯が鳴った。
三段飛ばしに降りる階段の下には双児宮が見える。
サガはもう、今日の執務に追われているのだろうか。
執務へ向かう階段の途中、宝瓶宮の入り口にカミュの赤い髪がなびくのを目にした時、シュラの心は多少なりにでも上向きになった。休日がないということは、もちろん恋人と逢瀬を重ねる時間もおのずと減る。顔を合わせることがあっても、二人きりで静かな空間で過ごす時間が減ることも、確実にあがらないテンションの原因にはなるのだ。都合がいいかもしれないが、おそらくは自分が磨羯宮から動いた気配を察知して、会いにでてくれたものだとシュラは思うことにした。姿が見えずとも気配のみで感じ取れるという小宇宙の利便性に改めて感謝もした。
カミュの姿を宝瓶宮の入り口で見た時、シュラはなんとか今日の一日も乗り切ることができそうな気がした。
「ハアっ……ハアっ!!…」
カノンはいると思ったのに、無人の双児宮を通り抜ける。
さすがは複数の黄金聖闘士から逃げ切るには、息も切れるし骨も折れる。このまま聖域を降り続けても、突然追いかけられる理由もわからなければ、その心すらも謎のままだ。
両手両足を大きくスライドさせ、ついシュラは、苦しく狂おしく頭と心を悩ませる名前を呼ぶ。
「か、カミュ…!」
いつ終わるのかもわからない執務でも、それが儚い希望であったとしても、シュラは宝瓶宮でカミュと一日の始まりの挨拶を交わし、ここ最近触れられなかった髪を撫で、辺りに誰もいないことを確かめてから口づけの一つでも交わし、口づけにうっとりと預けてきた身体を軽く抱きしめ、だが追われるように身を離して、耳元で、早くお前と二人きりでゆっくりと夜を過ごしたい、と囁こうと決めていた。
カミュを発見した時から考えていた。
だが、頬を緩めながら階段を一段昇ると、カミュの隣に今望んでもいない麗しい悪友があらわれて、カミュの肩をそっと叩き、また一段昇るとその耳元で何かを囁き、もう一段昇った時に、カミュは真顔のままで深く頷いた。
「シュラ……」
その時には、ほぼカミュとシュラの距離は階段で換算すると十段ほどで、呼ばれた名前と同じようにシュラが名を呼ぼうと口を開きかけた瞬間、カミュは突然駆けだした。
無表情のまま、いきなり突進してくるものだから、シュラの足は頭ではなく本能的に、階段を一段降りてしまった。
「あ?…な、なんだ?」
決して拒否の心だとか、拒絶の類のそれではなく、本能的にシュラの足は何かを察知して光速で階段を駆け下り始めたのだ。走りだしてしまったら止められない足の上で、シュラは冷静に、なんで逃げるんだ!オイ!と自分の両足に向かって心の中で問いかけてみるが、返事はなかった。通り抜けてきた自宮を駆け抜けて、後方を振り返ってみれば、無表情のままのカミュと、ニヤニヤと笑いながらそれについてくるアフロディーテがいた。
状況を把握しきれないままで、ふと後ろから聞こえてきた二人の会話が風に乗って耳に届いても、シュラの足は止まらなかった。
「あ~っはっはっは!ほ~ら逃げたじゃん!アイツ!なんも悪いことしてないのに、追っかけられたら逃げるタイプだと思ってたんだよね!」
「……さすがなのだ。アフロディーテ。だてにあの人と長い付き合いではないのだな」
どうしてかわからないが、それから宮を抜けるたびに追い掛けてくる人間は増えて、シュラはまるでおたずねものと言わんばかりの逃亡者に仕立てあげられてしまった。
ミロのように、逃走の途中で何かしらの被害を及ぼしたおかげで追い掛けられるのなら多少意味もわかるが、あとは全部、この騒ぎを面白がって混ざっているだけに過ぎなさそうな気もする。
「クソッ…!!!アルデバランもいないことを祈るしか…!」
金牛宮へと突入しながら、祈ったことを神は聞いていたのだろうか。
シュラは、そんな奴らばっかりだ、と内心で忌々しく吐き捨てながら、また誰もいない金牛宮を通り抜けた。

「サガ、ちょっと一息つきませんか?カノンの顔がますます不機嫌になっていますし、アルデバランの腹も鳴りっぱなしです。さっきから」
サラサラと動かしていたペンが止まり、執務机にかじり着くように身体を埋めていたサガは、仄かに漂う茶の香りにふと顔をあげた。
「ああ。そうだな。ムウ」
「ったく…なんでオレが執務をしなきゃならないんだ。しかもオマエと一緒にだ!」
「まあまあカノン。しょうがないだろう。いいじゃないか、たまには。できれば俺も追い掛ける役周りのほうがよかったけどなあ。じゃんけんで負けたんじゃ仕方がない」
「ウフフ…あんなの小さな子供の追いかけっこじゃないですか。アルデバラン。よほどこの静かな執務室でゆっくりお茶でも飲んでいたほうがいいです」
四人分の陶器の茶器に、淹れたての茶を注いで、ムウは羨ましそうに呟いたアルデバランへ向かって優雅に微笑む。
「それに、この二人に執務を任せておいたら喧嘩になっても止める人間がいないじゃないですか。私と貴方の宮からなら、対して獲物は追い掛けられませんよ」
「オイ、ムウ。それこそガキじゃないんだ。そんな心配は結構。むしろオレ一人でシュラの代役もコイツの代わりもできる。愚兄だからな」
「なんだと?この愚弟が。アルファベットの綴りも間違えるような貴様に私の代わりが務まるとでも思っているのか。バカめ」
「……ほらね?」
「……ああ。間違いない」
差し出されたカップを大きな手のひらで受け取りながらアルデバランは苦笑をし、すきっ腹に染み渡りそうな熱い茶へ口を付けた。ムウは、机越しに向かい合うようにして睨み合っているサガとカノンへもカップを渡して間を諌める。
「先程、貴鬼からシュラは金牛宮を通り抜けたと報告がありましたよ。本当にうまいこと引っ掛かりますねえ。あの人。ついでにシオンもここを抜け出して老師とどこか遊びにいったらしいです」
「あのジジイ逃げやがって…俺だって出かけたい。」
「貴様はいつだって執務なんぞ放り出して出歩いているだろうが!少しはシュラを見習え!任務の責任を感じているのかどうか知らんが、こうでもしなければ来なくていいというのに来るからな。私の手伝いをしてくれるのはいいのだが、頑固なんだか真面目なんだか、集中すると周りが見えなくて駄目だ」
「ちょうどデスマスクと足して2で割ったらいい感じに頭が柔らかくなるんじゃないですか。変態であることに変わりはなさそうですけど」
「男は皆変態であるというからなあ」
「いいえ、アルデバラン。貴方は大丈夫です。シュラとカミュが戻ってきたら、私も長期で休暇を貰います」
「ああ、もちろんだ。アルデバランも欲しかったら言え。お前達になら少しの無理ぐらいしよう。カミュやお前達に何かをねだられるのは嬉しいからな」
「サガ、じゃあオレも」
「貴様は駄目に決まってるだろうが!カノンよ、お前とデスマスクに至ってはその道理は通用しない。ミロもそろそろ駄目だな」
カチャリと口を付けたカップを皿に戻しながら、サガは冷徹にカノンの殺気立った視線を流した。
寒いこの季節、シュラが頑なに執務をこなしすぎて忘れていたもの。
サガが数日前にこっそりカミュからねだられたものは、サガ自身もできたら与えてやりたかったものだったから、無理やり与えるという形にはなったが。
無理やりでないと受け取らないほどに頑固に育ったのは誰の所為なのだろう。半分以上私の所為だなとサガは内心で独りごち、でも少しだけ嬉しそうに小さく息をついた。
「せいぜい楽しんでくるんだな。シュラ」
熱い茶を飲んだら無性に空腹を感じて、サガはムウへ食事の用意をするように言うと、深く椅子へと座りなおした。

白羊宮も抜けきって最後の階段を降りると、シュラは聖域の入り口へ出た。ヒュウヒュウと鳴るのは、真冬の風と息苦しく気管を鳴らす呼吸だった。
ついに聖域を降りきってしまったと、シュラはこれから何処へ逃げればいいのか、何処へ向かうのかも謎のまま、わずかに走る速さを緩める。
金牛宮を抜けたあたりで、ついにシオンまで混ざってきたかと気配で察知したものの、シオンの気配は童虎と連れ立ってすぐさま消え、白羊宮の途中でもっとも恐ろしかったアイオロスの気配も、シャカごとアイオリアと去り、悪友二人の小宇宙もいつの間にか感じなくなった。
だから、足を緩めたのだ。この逃走劇の決着をつけるために、それから何を思っての行動なのかを心を傾ける者へ問い正すために。
ついに、シュラは立ち止った。
立ち止って、振り返り、駆けてくる姿を見つめた。
白羊宮を抜け、シュラの姿を見つけて徐々に速さを緩めたカミュを。
シュラは、跳ねる息を抑えて額から落ちてくる汗を拭うと、心を落ち着かせて待つ。
シュラほどではないが、カミュも思えば始まりからこの逃走劇に加わった、もといはじめたのだから、全力で駆け抜けた距離はほぼ等しかった。
ハア、ハア、と目の前まで来て立ち止り、荒い呼吸で肩を喘がせるカミュをシュラは無言で見つめる。
額の汗を手のひらで拭い、屈むようにして両膝に手を置き、息を整えていたカミュが、一つ大きく息を吐き出した。
「あ、貴方はやはり足が速い。ついていくのがやっとだ」
「まだまだ鍛錬が足りないぞカミュ……ではなくだな、なんなんだこの騒ぎは」
「騒ぎ?それは違う。皆、貴方を祝おうと」
「は?祝う?……ああ」
ああ、と頷いてシュラはカミュの言葉で自分の生まれた日を思い出した。だが一つわかってまた一つ、謎は増えたにすぎなかった。
「なんで祝うのに俺が追いかけられねばならん。意味がわからん」
「いや、予定では普通に貴方を聖域から連れ出す予定だったのだが、皆混ざってきたのだ。おそらくアフロディーテに漏らしたのがまずかったのかもしれない」
「クソ…やはりアイツか…。蟹と一緒に斬ってやろうか。カミュ、悪いんだがな俺はまだもう少しサガの執務を手伝いたいのだ。だから、戻らねば」
シュラが心の中でこっそり悪友へ聖剣をしかける予定を立てた時、カミュはそっと上体を起こしてシュラを真正面から見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「シュラ、行かせないのだ。今貴方を取り逃がしたら、私はサガや皆にぼこぼこにされるかもしれないからな。我儘と無理を言ったのだから」
「我儘?無理?」
いまだによく理解ができない、そういわないばかりに首を傾げたシュラの手を、カミュはそっと握る。
「ああ。こうでもしないと貴方は休みも取らないだろう。無理に長い休みをもらったのだ。貴方と私の代わりに任務も執務もこなしてくれる」
「おい、ちょっと待て。そんな急に…あれは俺が任務でやらかした所為で…。」
「そう言うと思ったから、貴方には黙ったままサガに頼んだのだ。皆がああも混ざってくるとは想定外ではあったが、良い運動にはなっただろう。もう私から貴方は逃げられないのだ」
逃げる気などは毛頭ない、いつものシュラだったらそう返すところだが、ついていけない事実を飲み下すのに精一杯で、ただカミュを見つめるだけに終わった。そんなシュラを見て、カミュは小さく笑い声を漏らすと、繋いだ手に力を込める。それは逃がさないという言葉を態度で示した行為で、さあこれから、という意思表示でもあった。
呆然とその場に立ち尽くすシュラの手を引き、カミュは歩きだそうとする。
「ちょっと待て、どこに行くんだ?」
クン、と後ろに引かれるようにカミュは動かないシュラに足止めをされ、手を離さぬまま、振り返った。
「…貴方を抱き締める事ができる場所だったら、何処でもよいのだ」
「何?」
「詳しい事は歩きながら話すのだ。シュラ。結論から言えば、私は貴方を祝福したいと思っていて、私も祝福をされたいと思っているということかな。休暇はまあ、皆からの祝福だと思ってほしい。」
カミュは、手短にそうシュラに告げると手を引いてまた歩き出した。
聖域の入り口は背後にある。
歩みを共に進めながらも、まだちらちらと納得がいかないように聖域を振り返るシュラに、カミュは穏やかな溜息をつくと、繋いだ手を力強く引き寄せて、汗に濡れた黒髪の耳元で囁いた。
「次の今日という日もまた、貴方を抱き締めると言っただろう?」

巨大で今だ未完成なバシリカを横目に、真っ直ぐに伸びるこの町のメインストリートを賑わしているのは、さして自分たちと変わらない同じ年頃の若者達だ。
厚手のコートの襟を立て、足早に通り過ぎる人の手は、大抵大小様々なショッピングバックを持っている。
通り沿いに曇り一つないショーウィンドウが顔を広げて、立ち止ってみればそこにはどこもかしこも流行の最先端が詰まっていた。
真冬であるのにさあどうぞと言わないばかりに開け放たれた入り口から店内へ足を踏み入れれば、天井が恐ろしく高い広大なフロアと壁伝いに張り巡らされたラックに、凄然と数多の衣類がかかっている。シンプルなモノトーンのラックから一体いつ着るのだろうと首を傾げるような原色の色まで、また、Tシャツとジーンズが隣同士に並べられたラックの隙間にはバッグと靴まで。
わざと見えないように隠されたタグを探し当て、そこに書かれたものの値段をチラリとみてからカミュは、すぐ隣のラックから黒いVネックのTシャツがかかったハンガーを手に取ったシュラへ話しかけた。
「…貴方の故郷というのはここなのだろうか?」
服の裾を返して裏地を確かめ、ハンガーを遠ざけてじっと服を見つめていたシュラは、視線を服から離すことなく適当な相槌をうつ。
「……違う」
「貴方はいつも黒ばかり選ぶな。もう持っているだろうそれと似ているものは。たまにはこっちの色などどうだろうか」
カミュは、シュラが見ていたラックから同じ形で色違いのTシャツを手に取る。
「悪くはないが駄目だな。さっき見たカーキ色のジャケットを買おうと思っている。色が同じになるだろう」
「ジャケット?あまりジャケットは着る機会がないだろうに」
「ああ、まあ着る機会がないとかそういうことではない。お前もきちんとしたジャケットかコートを一枚でいいから買え。あと何日か分の服だ。下はどうにかなるだろうが上は着ている分しかない。あと下着だな」
カミュが渡そうとしたカーキ色のTシャツをやんわりと拒み、シュラは手に取った黒いTシャツのハンガーをしっかりと持った。どうやら買うことを決めたらしい。
「コート?別に私は必要ない。少しも寒くなどない」
「駄目だ。買え。中はそのままでもいいから買え」
「…何故なのだ?」
「なんでもだ」
「もしや、貴方の故郷はシベリア以上に寒いところなのだろうか?それならば大丈夫だ。私は絶対零度まで耐えられる」
「違う!寒いといえばここよりは寒いと思うが、そんな極寒の地などこの世界にあるか。いいか。カミュ。よくまわりを見てみろ。そして季節を思い出してみろ。今は何月だ」
耐えられるとか耐えられないとかそういうことじゃない、とシュラは呆れ気味に独りごち、カミュを見つめてから同じフロアにいる人々へと目を向けた。
外ではなく暖房の聞いた屋内ではあるが、フロアで買い物をする人々は皆しっかりとウールやダウンジャケットを着込み、マフラーをしたり、ニットの帽子を被っている。
シュラはフロアへ目を向けているカミュの頭の先から靴先までをこっそりと見て、内心で安堵の溜息をついた。
せめて今日来ていた服が、ノースリーブではなくてよかった。だが、乾いた真冬の風が吹きすさぶ季節に袖が七分の薄いTシャツ一枚というのはどうだろうか。
寒いとか暑いなどの問題ではない。聖域を一歩でたら、聖衣を着ていなかったら、例え聖闘士であろうとも、特殊な力を持ちえない常人に代わりはない。
予想だにしない突然の出発で聖域を後にし、道すがらカミュから事の詳細を聞いたシュラは、悩みに悩んで自分がカミュを案内することができるであろう唯一の場所を選んだ。でも、その場所へ辿り着く前に、何も持たない着のみ着のままでの旅はまずいということに通りすがる人々の視線で気付いたのだ。
真冬に袖がついているとはいえ、シャツ一枚とジーンズのみの軽装の男が二人連れ立って歩くのはさすがに奇異に映る。
それに、出発の前に思い切りかいた汗が乾き、小宇宙を纏おうとも多少肌寒い気もした。
まず必要なのは服だ。
街の中に溶け込めるような、服だ。
そう思いながら、シュラはラックを移動し、今度は棚に詰まれているグレーのニットを手に取って広げた。多少カミュのほうが細みであるが、同じサイズを買って着られないことはない。いざとなったら旅の間着まわせばいい。
無言であとについてきたカミュに、広げた服をあてながらシュラはこのニットも買おうと決めた。
「お前もちゃんと選べよ。わかったな。」
「……シュラ。選んで買うのはいい。必要ならばしかたがない。だが、貴方は財布を持っているのだろうか」
ニットを当てられたまま、カミュはじっとシュラを見つめぼそりと呟いた。
シュラはハッと声をあげ、繰り出す時にいつも財布をつっこんでいる右のポケットに手をやった。
なにもない。けしからないパンツもない。あるわけもない。
何故なら執務に赴く途中だったからだ。
金がなければ何もできないのに、ここは聖域ではない。
途端に固まってしまったシュラを見て、カミュは小さく笑い、シュラの手から黒のTシャツとグレーのニットを奪ってカウンターへ向かった。
「お、おい…カミュ」
カミュにとっては言葉もよくわからない場所なのではないかとシュラが心配をする間に、カウンターにいた店員は近づいていったカミュへと笑顔で話しかけ、少しの言葉を交わしたあとにまた別の店員を呼びに行った。この店の店員は女性も男性もシンプルな黒のジャケットとパンツを身に着けているのだが、すぐに表れた男性はしっかりとスーツを着込んでいた。
なにやら仰々しくカミュへと頭を下げ、男性は二三言葉を発する。カミュはパンツのポケットからカードを取り出して、見せる。そのカードを確認すると笑顔でカミュが手に持っていた服を受け取り、カウンターの上に置いた。それからごゆっくりどうぞとでも聞こえてきそうに再び深く頭を下げた。
グラシィアス、そうカミュが呟いた言葉だけがシュラに聞こえた。
「シュラ、買い物を続けよう。私はあちらでコートを見てくる」
買ったというよりも、選んだばかりの服を纏い、二人分で一つだけの紙袋を持って、シュラとカミュは店員に見送られながら店を後にする。
店先で頭を下げる人の気配をこそばゆく思いながら、シュラはミリタリージャケットのフードについたファーを触った。値段はそこまで高いものではないのだが、やはり支払をしていないというのは心が引けた。
カミュがカウンターから戻ってきたあと、専属の店員が付き、シュラが買おうとしたものはすぐさま受け取られてしまった。
Tシャツを数枚と、下着を数枚、それからジャケットを選んでカウンターへ向かうと、カミュは燻金のボタンのついた黒のスタンドコートに、ロングブーツという出で立ちになっていたのだった。
やっと店先から遠ざかり、後頭部を刺す気配が薄まってきたのを感じとったシュラは、コツコツとジョッキーブーツの底を鳴らして歩くカミュを見た。襟の高いコートのボタンをきっちりと締め、腰まである長い髪が柔らかくコートの上を覆っている。
「少し女っぽくないか。そのコートは」
「そうか?だが私はこれが気に入ったのだ。このコートにはこのブーツがいいと薦めてくれたのだが、似合わないだろうか」
「いや、とても似合っている。いいと思う」
「ありがとう。貴方もとてもジャケットが似合っている。なんというか貴方らしいと思う」
カミュはシュラの歩く姿をじっと見つめ、満足そうに微笑んだ。そっとすぐそばにあるシュラの左腕を取ると、腕を絡めて組む。
「こうして歩いていたら男女のカップルのように見えないだろうか」
「よせ。別にお前が女じゃなくてもいいんだが、人通りがあるだろう」
「貴方は前に出かけた時、私達を知らない人ばかりだからいいと言って、手を繋いできたのだ。ここだってそうだろう?私達を知っている者など誰もいない」
絡めた手のひらに力を込める。シュラはじっとカミュを見つめたあと、その行為による照れ隠しをするかのように、明後日の方向を向いたまま歩き出した。
Piropo!
通りすがりの男が、シュラとカミュの姿を見て、呟く。
シュラはそれを聞いて忌々しそうに舌打ちをする。
この場所を含めたラテンの国では街で見かけた美男美女に対して、こうして声を掛ける風習があった。
カミュはシュラの顔を覗き込んで、ほらという顔をする。
「さっきのはきっと貴方にだろう」
「俺に言ってどうする。アレは明らかにお前にだろう」
これだからこの国は、とシュラは思う。特に、今いるこの場所は人も多く、賑わう街であるから余計だ。そんなシュラの心を尻目にカミュはどこか嬉しそうに歩き、あちらこちらへと視線を向け始めた。
濫立する服屋の間にあるカフェからは、香ばしい珈琲の香りが漂う。この寒さであるのに、オープンテラスで鼻の頭を赤くしながら、往年の男性がカップを啜る。足元を枯れた木の葉が転がっていく。鼻先をかすめられて、むくりと鼻づらをあげたのは毛むくじゃらの小さな犬だ。ビルの隙間から見えた遠くにそびえるゴシック建築の最高峰は、未完成ながらもこの場所を堅牢に、華やかに彩っていた。
カミュは、ふとショーウィンドウ越しに映った自分とシュラを確かめる。中世の空気と現代と、濃密な日常の街並みに溶け込めているのだろうか。
「もし私が通りすがる人であったら、きっと貴方には先程のように声を掛けると思う」
「なんだと?」
「声をかけ、それからそこのカフェでお茶をしないかと誘うのだ。熱いカフェラテを飲みながら貴方の赤くなる鼻先を見て、とても得した気分になって、なんと幸せな一日であるのだろうと思うのだ。」
「…それは、カフェに行きたいということでいいのか?カミュ」
「そうではない。もしもという話なのだ」
カミュはからかうようにシュラへ笑いかけ、肩先へ頬を摺り寄せる。
一層近くなる気配と体温にシュラは頬を緩め、往来の通りであることも忘れて頭の先へ唇を落とした。
「悪いが知っての通り俺は財布がない。その、お前が女神から頂いたというそのカードはあのカフェでも役に立つのか」
「安心するのだ。恐らく使えるだろうがカフェの代金や何回か食事をするぐらいなら私が持っている」
「ちゃんとな、お前が事前に言ってくれればだな」
「シュラ、その話はもうさっき話しただろう。女神がご厚意でくださったのだ。その祝福を受け取らないというのは聖闘士としてあるまじきことではないか?最も忠誠心厚き聖闘士ではないのか。貴方は」
これから先もその調子ではいけないな、とせっかくの雰囲気をぶつぶつと壊しだしたシュラへ、カミュはわざとらしく眉を顰めてみせる。
それなりの値段がする冬物のコート二人分に、シャツやニットが数枚と下着が何枚か。
すべてを一度に購入すれば、それなりの金額が必要なのに、カミュはカードを見せるだけですませてしまった。
それは、逃亡劇という一連の計画をアフロディーテからこっそり聞いた女神から渡されたものだった。
提示をすればその場で支払わずとも、直接グラード財団へ請求されるというそのカードの話をしたところ、シュラは大変なまでに恐縮し、聖域に戻ったら女神の前で頭を擦り付けて礼を述べてしまうのではないかというほどの様子だった。
使用した分はもちろん、カミュも後々に支払いたいと思っているが、きっと女神は許してくれないだろう。
目を輝かせながらアフロディーテと宝瓶宮を訪れて、自分とシュラの生まれた日への賛辞の言葉を述べてくれた女神の事を、例え遠く離れた地にいようとも愛しく思う。思えば、アフロディーテと連れ立って女神が訪れた時点で、逃亡劇の計画は皆の中で出来上がっていたのではないか。
「やはり、もう少し腰を据えて話し合わなければ駄目なのだな。貴方は」
絡めた腕を引き、カミュはシュラの返答も待たずにカフェの方向へ歩き出す。
「ちょっと待て。カミュ。」
「待たない。貴方は待てと言っても待ってはくれないから、私も待たないのだ」
半ばシュラを引きずるように歩くカミュの手を、それでもシュラは、強く引いた。
「カフェに入るのはいいが、俺が行きたいと思うのはここじゃない」
「どこかいいカフェを知っているのだろうか。」
振り返り、カミュはシュラに問い掛ける。
「今からバスに乗り、三時間半後にカフェに入るのと、走って30分後にカフェに入るのとお前はどっちがいい?」
「なんだというのだ?」
「というか、俺はこの街をあまりよく知らない。俺がお前を案内できるのはここではない街だ」
「走っていくのか?」
「そのほうが早くカフェにはつけるな」
「この格好で?」
「走れないことはないだろう」
「貴方の故郷へ行くというのに、汗臭い体になってしまうな。」
せっかく服を新調したのに、といいながらカミュはブーツで走れるかどうかと地面の上で踵を鳴らした。
「…故郷と言っても知り合いはいない」
シュラはさらりとそう答えながら、走るにあたって手に持った紙袋をどうすればいいかと思案を始める。光速で移動する間、紙の袋は破れないだろうか。確かに街へ溶け込んではいるが、そんな思案しながら佇んでいるのは恐らく自分達ぐらいだろう。
「この通りは人が多い。行くぞ」
紙袋の取っ手を折り畳み、小脇に抱え直したシュラに促されてカミュは、大通りから細い裏路地へと入った。
スペインカタルーニャ州の首都、バルセロナから北東へ190キロ。
隣国フランスとの国境ピレネー山脈の麓に、その小さな町はある。麓とはいっても標高は700メートルにも達する場所であるから、既に壮大なピレネーの連なりの一角であるといってよい場所なのだろう。
人口一万人程度の小さな街、セオ・デ・ウルヘル。
はじめ、カミュがこの場所へ訪れた時、四方を山々に囲まれた静かな街であると思ったが、その静けさは静寂を通りこして、硬質な寂しさのようなものに感じた。
「今日は一日中ずっと走ってばかりだな」と、シュラへ向かって呟こうと考えていた軽口は、鈍く重厚な街並みの佇まいに沈んでいった。
ありとあらゆる色の石の外壁に囲まれた家々が立ち並ぶ様は、バルセロナの街並みととてもよく似ているのに、漂う古めかしさは、あの賑やかな街の空気とは比べ物にならない。
ブーツの踵が、ひと気の少ない石畳の通りを叩く。
バルセロナに溢れる中世の気配はいわば、人工的に作られたもののようにすら感じてくる。
通りの隙間には、小さな用品店や食品店があることを確認できた。人の気配がする。だが人の姿が見えてこないからこそ、古い佇まいの通りには、重苦しい程にこの街の人が根付き、生活を営んでいる生々しい気配がした。
立ち寄ったその街をあとにする時には、確かカフェの話をしていたはずだったのに、シュラはそんな通りにあるカフェにも寄らずに、ただ歩いている。もう走ってはいないのに、小脇に抱えた紙の袋をシュラはいまだに丸めたままで歩いていた。
僅かに離れていた距離を詰めようと、カミュは足を早めてシュラの真横に並ぶ。
「シュラ。袋はもう大丈夫だと思うのだが。私が持とうか?」
「…ああ、そういえばそうだな。忘れていた」
と、シュラは小さく苦笑い浮かべて紙の袋を持ち直した。覗きこんだ横顔にもう距離はない。ないはずであるのに、襟元のファーに埋もれた表情は、薄い皮一枚で覆われているような気がした。
「もう、貴方の行きたかった場所へ、私達は着いている?」
気のせいかもしれないベールを取り払う為に、カミュは言葉を続ける。
「・・・そうだな。半分は着いてはいるが、まだ着いてはいない」
「ここが貴方の故郷なのか?」
「ああ。ここが俺の故郷だ」
微かに風が吹いて黒い髪を靡き、カミュは再びシュラの腕を取った。
「これからカフェに行くのか?三十分よりは時間がかかったが、三時間よりは早かったのだ」
絡めた腕に関してシュラは何も言わず、ただ一言だけ「カフェの前に行きたいところがあった」と、呟いた。
カミュは返事をせず、絡めた腕に力を込めた。建物の隙間から覗く薄曇りの空が、端整で緻密な街並みに、影を落としている。

天井の抜け落ちた廃墟の教会は、風の音と言葉を反響させた。
ウルヘルの街の約三分の一を占めるのは旧市街なのだと、カミュは崩れ落ちた天井の欠片が苔むしているのを眺め、歩いてる間、シュラから教えられた。
ところどころにそんな廃墟の痕跡を残す旧市街を抜け、辿りついたカテドラルの前で、シュラは、カテドラル真正面―ファサードと灰色の空にそびえたつ鐘楼を、じっと見上げた。
「中に入ってもいいか?」
シュラは、見上げていたカテドラルから目を離して、カミュを見た。力強く堂々とした面持ちで佇んでいるのに、カテドラル全体を包む気配には精錬された神聖さと、息をするのも忘れるような侘しさが漂い、カミュはどこか厳粛な面持ちのままでコクリと頷く。
そんな表情に、シュラは頬の力を抜き、「そんなに堅くなる必要はない」と、薄く笑った。
微笑み、再び歩みを進めたところで、ふとシュラは立ち止って振り返り、カミュを見る。
カミュも振り返ったシュラの眼差しを映し、ゆっくりと伸ばされて、そこに立っていることを確かめるように一度だけ、髪を撫できた手のひらを受け止めた。
二人の崇拝する神は、このカテドラルにはいないはずであるのに、神の間へ続く扉を開く瞬間というものは、どうしてこうも厳粛で、おごそかな気分になるのだろう。
そう問いかけるように鈍重に軋む真鍮の取っ手を引いて、シュラは拝廊に続く扉を開く。
鈍い陽光の元から足を踏み入れたカテドラルの内部は、天窓と、人の目を奪うように高い位置にはめ込んである壁面上部の小窓から、僅かな光が差し込むだけだった。
内部の最奥にある祭壇へ向けて、左右に配列された礼拝者の為の長椅子はよく磨き抜かれ、ぬめるような輝きを帯びて光る。
人の気配もなくピンと張りつめた冷たい空気に包まれて、カミュは静かに息を飲み、思わずシュラに絡めていた腕を離した。足が一人でに動いた。
二、三歩ほど歩いて放たれた足音が、緩やかなアーチを描き、上方へ向かって高く高く伸びる壁面に沿って滑り、残響になった。
音を追いながら目を向けた吸い込まれるような天井の丸みは、空間との境目がわからなくなりそうなほどに、ほの暗さの中に溶けている。厳かな空気に微かで柔らかい花の香りを感じて目をやれば、奥に見える磔刑像と献花であるカサブランカだけが人工の照明で照らされていた。
片膝をつき、くずおれるままに十字架に架けられる神の像を見つめながら、カミュは呟く。
「ここが、貴方の来たかった場所なのか」
「ああ」
長椅子が配置されているのは、カテドラルの入り口から祭壇まで続く道、身廊と呼ばれる広い空間で、言葉と共に感嘆の溜息を零すカミュの背中を目にしながらシュラは短く答え、立ち尽くす姿を追い越した。ついて来い、と口にだされたわけではなかったが、カミュはシュラのあとへ続いた。
「どうしてここへ来たかったのかと、聞いてもいいだろうか」
「この街で見て回るような場所はこのカテドラルぐらいしかないからな。それに、ここはよく知っている」
「貴方も幼い頃には敬謙な信者であったとか?」
「俺がこの場所にいた年には、神だとかそんなものは理解できなかったがな。生まれてからほんの数年だぞ。聖域に行ってからのほうが長い」
「それもそうだな」
祭壇に近づくにつれて窓からの自然光が増え、より辺りへ落ちる影の明暗がはっきりと隔たれてくる。自然光が増えた理由は、磔刑像を見下ろすように掲げられていたステンドグラスと、花紋様の小さなバラ窓があった為であった。
決して豪奢なものではない慎ましやかなバラ窓とステンドグラスの装飾ではあったが、魂を司る御使いと、神の物語が掘り込まれているそれは、硬質で厳粛な透明の空気に、華美と原色の彩を与えていた。
離れていては、強い逆光で見えなくなってしまうほどの小さなバラ窓に、物語がある。
言葉も声もない絵物語を読むためには、太陽の光と辺りを占める背景の闇がなければならない。
堅牢な石造りの光と影、空間を照らす明と暗、カテドラルの全体を包み込む神の生と死の気配。
カミュは、この場所を埋める硬質な気配に潜んだ美しいものが合い見えたような気がした。
「美しい」
カミュは思わず感嘆の息とともにぽつりと囁いた。
同じように首を傾けている黒い瞳もステンドグラスを捉えているのだろう、その姿は、暫く無言のままでいた。
「……カミュ、そのまま後ろを振り返ってみろ。」
静かに無言を断ち切ったシュラへ言われるがまま、カミュは進んできた身廊を振り返る。思わず、息を飲むそれ。真下を進んできたのではわからない、カテドラル入り口扉上方の壁にあるアーチ型の天窓には、腕に赤子を抱く神を描いたステンドグラスがはめ込まれていた。
「あそこが外から見えたカテドラルの正面だ」
「外からでは全く気付かなかったのに、不思議なものなのだ。奥のステンドグラスとはまた雰囲気が違うのだな。彼こそが、このカテドラルの中の神であるからだろうか」
目に見えない神を崇める人が、信仰の先に望むものは形を為した神の姿だと、そう思わせるような深く穏やかな眼差しが、カテドラルを静かに見下ろしている。
バラ窓の装飾画は色とりどりのガラスをモザイクのようにはめ込んだものであったが、今、カミュが目にしている装飾画は、まるでガラスをキャンバスとして、直に油絵具で描いたもののように肉厚で詳細なものだった。食い入るようにステンドグラスの神と、神に透ける光を見つめる横でシュラもまた、何かを考え込むように見つめていた。
「このステンドグラスが、一番好きだった。」
「意外なのだ。貴方がこういうものに興味のあることが」
「俺だって、美意識の一つや二つはある。」
「いや、美意識というよりも、幼い頃の貴方がこのような場所に来てじっと神を見ていたことが意外であると思った」
「神だと思って見ていないからな」
言葉と神から外れて向けられた視線で、少しだけシュラの纏うベールが落ちるのを感じたカミュは、小さく微笑む。
「先程も神の御前でよくわからないと公言してしまうしな」
「あの頃の事実を述べただけだ。それに、嫌でもこのステンドグラスを毎日見ていたからな」
「毎日?」
「ああ。ところで、カミュ。あのステンドグラスに描かれているのは男に見えるか?女に見えるか?」
「神は男だろう。あの絵には豊かな髭も描いてあるのだ」
「そうか。俺は小さい頃ずっとあれは聖母が子供を抱いている絵だと思っていたんだが、聖母ではないことに今初めて気付いた。男だったんだな」
「私から見て、彼は間違いなく男であると思うのだ」
首を傾げながらあまりにも真剣な表情でシュラが聞いてくるので、カミュもまた、真剣な面持ちでステンドグラスを確認し、頷いた。
じっと二人で見つめ合い、息を飲むような空気の間、ふっとシュラは声を漏らして笑った。
「そうだよな」
「……そうなのだ」
厳かなる神の間の声は囁き程度のものだったが、音と共に堅い空気は緩む。
「その事に気付けただけでも今日ここまで来たことを、良しとしようと思う」
「私は貴方のそんなとぼけたところが知れたことを、良しとしようと思う」
薄雲が途切れたのだろうか、天窓から差し込んだ幾分明るい光彩が、わざと合わせた口調で見上げた表情に差し込んだ。
「腹が減った。カフェにでも行くか」
到底手の届かない神でも、自らの意思でそのすぐ近くまで歩みを進めることはできる。
ステンドグラスを見上げたままシュラはカテドラルを後にしようと歩みを進め、見下ろした神の前で、カミュの手を取る。
その後、カテドラルの外を半周し、催されていた市場を眺め、ぶらぶらと二人で歩きまわった。旧市街とはいえ、シュラのいた十数年前の街並みとは大きく変わっている部分も多々あり、曲がる路地を間違えて見覚えのまったくない場所へ迷いこんだり、菓子屋だと思っていた店がその実はパン屋であったりと、シュラは幼い頃の自分の記憶の曖昧さに内心で苦笑いをこぼすばかりだった。
微かな記憶だけを頼りに、見知らぬ迷路の道を歩き回ることの心元なさは、一瞬だけでも自分達が聖闘士であるということを忘れさせる。だから、昔に店の前を通るといい匂いがした、という記憶のみで辿り着いた場所にカフェがあったのは奇跡にも近いような気さえした。
カフェの扉を開き、磨かれてはいるが年代を感じさせる木のテーブルと簡素なカップでやっと珈琲にありついた頃には、もう陽も落ちる頃となっている。
老朽に黒く色を変えた窓枠の隙間から感じる夜の空気にはより一層の冷え込みが感じられ、明日はどうする、それよりも今日はどこに泊まるのだ、と次々と問う合間、カミュは溶かした熱いショコラにチュロスを浸して食べる甘いものをことのほか気にいったらしく黙っていても、もくもくと唇を動かしていた。
通りを歩きながらいくつかのペンシオンは確認をしたから、適当な場所に泊まればいい。しばらくこの街に滞在をしたいというのなら、一番安価なところでいい。
頭の片隅で、カミュから問われた事をシュラは考えていたが、もう片隅ではまた別の感慨に耽っていた。
こんな冷えて湿った空気で迎える夜はきっと雪を連れてくる。ピレネーの峰では今頃雪が降りだしているのだろう。
一番安いところでいいとシュラは言ったのに、祝いの為に来たのだからとがんとして譲らなかったカミュに負けて、バルでパエリヤの夕食を済ませたあと、二人はそこそこの等級のペンシオンに入った。
執務に赴くはずだったのに、気付けば故郷の街に立っているという事実は予知も予測もできないものだったが、通された部屋のベッドを見てほっとする。
荷物は紙袋と、バルを探すがてらに買い込んだ酒と簡単な料理ができるほどの食材だけだったが、手のひらから離した瞬間に一気に腕が軽くなったような気がした。
そこそこの等級、とはいっても旧市街にあるペンシオンは、立ち並ぶ民家の二階や三階の部屋を多少小奇麗にしたような簡単な作りになっていて、いわば短期滞在用のアパルトマンの雰囲気に近かった。
カテドラルへ抜ける通りに面して入り口があり、部屋を取ったあとは一旦エントランスの奥の扉からごく狭い中庭へ抜けて、木造の螺旋階段を昇る。独立した離れのような部屋には、シンプルなベッドが一つと、テーブルが正方形の小さなダイニングテーブルと椅子が二脚。ベッドの横に大きな窓があり、部屋の片隅で燃えている薪のストーブからの煙が黙々と白く空を曇らすのが見える。
縦長の部屋の奥へ続くもう一つの扉の先が、ユニット式のバスルームと狭いキッチンとなっていた。
シュラがひとまずコートを脱ごうと腕を抜いたところへ、部屋の探索をしていたカミュが戻ってくる。
「どうも、この部屋は不思議な作りだな。入り口を作る場所を間違えたのではと思う。キッチンの窓から通りの反対側が見えたのだ。やはりこの街の人々は貴方のようにとぼけているのか?」
「おい。それは俺を馬鹿にした発言じゃないのか。カミュよ。」
「馬鹿になどしていない。さすがは貴方の故郷なのだと」
どうも今日のカミュの様子は調子が狂う、と肩をパキリと鳴らしながらシュラはコートを脱ぎ、テーブルと揃いの木の椅子の背もたれへ掛けた。
「その毛布もあれか、一人は床に寝ろという意味なのだろうか」
「ああ?…違うな。防寒用だろう」
「ベッドが一つしかないのに?」
コートの金釦をゆっくりとはずしながら、一つしかないベッドの上にやたらと積みあげられている毛布の枚数について話すカミュを、シュラはベッドの縁へ座って眺めた。さして沈まないスプリングに一旦腰を沈めると、そのままベッドの上に転がりたくなる。だが、件の毛布が寝転がるには少し邪魔だった。
「ベッドなんて一つでいいだろう?」
ストーブの前に、毛足の長いラグが敷いてあるのを確かめてから、シュラは全ての毛布をラグの上へどけた。そもそも二つ必要な理由なんてどこにある、と得意げにカミュを見ながら呟いて、再びベッドへ転がる。
「毛布をどけてしまったら眠る時に使えないのだ」
一つしか必要ではないベッドの理由に気付いたカミュは、じっと注がれるシュラの視線に些細な抵抗をしながらコートを脱ぎ終えた。見慣れない新鮮さのあるコートの下の、見慣れたカミュの服は、上下ともに聖域で見るものと変わりはないのだが、身体の線にそった随分細見の服であるということがはっきりとわかった。
シュラは、普段と変わらぬものが同じように見えないこともまた、聖域の外の慣れない空間にいる所為からかと思う。
聖域ではなく、幼い頃を過ごした遠い記憶の街。
ピレネーの雄大な自然の厳しさをまだ知らないまま、女神などを知らずに生きていた頃の街。
「シュラ?疲れたのか?私は酒の用意をしてこようと思うのだが」
ぼんやりとベッドへ転がったままであるのを訝しみ、ふと覗き込んできたカミュを見て、シュラは言う。
「……カミュ、酒の用意をする前にキスだ。キスをしろ」
ゆらりと腕を伸ばして、垂れ下がるカミュの髪を一房掴み、軽く引く。
突然の行動と発言に、カミュの瞳は一瞬驚いたように開かれるが、すぐさま指先がシュラの前髪を掻きあげてきて、額に唇が落ちてくる。
「……違う。そこじゃない」
「ではここでよいか?」
不貞腐れるように顰められた眉を見てカミュは薄く微笑み、額を撫でた唇を降下させ、シュラの漆黒の髪に半分隠れた左の耳朶へ落とした。乾いたリップ音と共に啄んで、すぐに離れる。
「よくない」
そういってさらにムッと曲げられた唇に、カミュは瞳を細めて言った。
「唇へするのは、抱き締める時までとっておいたほうがいいと思うのだ。まだ祝福の言葉を述べるには、神酒が足りないだろう。すぐに用意をしよう」
ふん、と視線を外したシュラの髪へカミュはまた唇を落とすと、静かに離れていく。
ベッドからシュラが逆さまに仰ぎ見た窓の外は、とっぷりと暮れた静かな黒い夜の色であった。

パプリカを黒く焦げるまで焼き、皮を剥いでオイルにつけ込んだエスカリバーダと、フェタチーズに蜂蜜をかけたメル・イ・マト。どちらも瓶詰のものを開けて皿に並べただけだったが、辛口のカヴァと赤ワインを楽しむには十分な味だった。
それらをつまみながらまったりとカヴァを空け、赤ワインの二本目の瓶に手をつけるころには、正方形のテーブルも椅子も窮屈に感じられて、瓶とグラスを持ったまま、シュラは薪ストーブの前のラグへと直に座り、放り投げた毛布に寄りかかった。
時折、ストーブの火の中へ横に積まれた薪をくべねばならず、そのためだけに椅子を立ち上がることも面倒になってきたところだったからだ。
ラグの上へ気持ち良さそうに身体を投げ出して、シュラがグラスを口に運ぶのを見て、カミュも同じようにグラスを持って、シュラの隣へと移る。
煤で至るところが変色した扉の硝子から、それでも中で赤々と燃える炎の色と熱が近くなった。
じんわりと身の内から酒精で暖まり、肌を暖める熱は少し暑いような気もしたが、シベリアでの修行の時には欠かせなかった間近な炎が懐かしくなり、カミュはじっと隔たれた火の色を見た。
惜しむらくは、部屋の中の煌々とついた丸電球かもしれなかった。別段この場所にいるのなら、火の明るさだけでも手元のグラスへ酒を注ぐことはできる。
「シュラ、明かりを消してもいいだろうか」
グラスを傾けて中身を煽っていたシュラへことわりをいれ、カミュはたち上がり、部屋の電灯を消した。途端に、窓の外と同じ夜の色に浸食される室内。パチリと火の粉を舞わせる薪が、音を立てた。
静かにラグへ片膝を立てて座り直したカミュは、グラスを口に運ぶ。シュラは転がったまま這うようにして近寄り、片手枕で支えていた頭をカミュの立てられてはいない膝の上に乗せて仰向けになった。
手に持ったままゆらゆらと腹の上で揺らしていたグラスを、カミュは見かねたように取り上げて、中身を全て飲み干してしまう。
「おい、なくなったぞ」
「その態勢では飲めないだろう?シュラ。確実にラグへ溢す」
「ちゃんと飲む時は起き上がる。グラスを返せ」
シュラはそう言って機嫌の悪そうな声音を出してみせるが、その実、カミュを見上げた瞳に不機嫌の色はなかった。
火の明かりだけの静かな部屋、心地良く体内をめぐる酒、常とは違う、誰も知らない古ぼけた記憶の街でたった二人。
カミュは、シュラの見上げてくる眼差しを見つめたまま、己のグラスに入っていたワインを口に含むと、ゆっくりと態勢を沈めて身体の上へ覆いかぶさった。
逆さまに映る唇と、薄明りに輝いた赤い瞳がゆっくりと閉じられていくのを見るまま、生温かな液体は喉を通る。
シュラは、蠢き、白く浮き上がった喉元と唇から与えられた酒を嚥下させると、そのままカミュの口腔の中へ舌を差し込んで掻き回した。
眼前の喉元がヒクリと震える。カミュの手にあったグラスがカタ、とラグの外の床へ離される。
その音を聞くままにシュラも瞳を閉じ、舌を絡めたカミュの後頭部に手を回して頭を押さえ込みながら、徐々に身体を起こしていく。
態勢を変える間、唇が離れそうになったのを、胸元を掴むことでカミュが引き寄せた。
丁度座ったままに向かいあった頃、唇を離したシュラは、ペろりと唾液で潤った唇を舐めてから、薄らと開いた瞳の前で囁く。
「もうそろそろ抱き締めたくなったか?」
小さく上がる口角を見たカミュは、返事をする代わりに再び瞳を閉じながら、薄く開いた唇をシュラへ押し付けた。そしてゆっくりと身体が後方へ倒れていく。炎の色が反射するラグへ全てを委ねきったあと、その背中へしっかりと腕を回した。
「今、抱き締めたくなった」
「今?……遅い」
俺はずっとこうしたかった、とカミュの耳朶に舌を差し込みながら囁いたシュラの手のひらが、シャツを捲り上げて直に肌を撫でる。
部屋の天井に映った重なりあった影までをも揺らめかせる炎は、蜜が溶け込んだようにぬらりと艶めく緋色だった。
火が灯っている間は、蕩けてとめどなく落ちてくる蝋のように、次第にカミュの唇からは密やかな喘ぎの声と吐息が止まらなくなった。
蜜蝋が甘く落ちた。

せっかく身体に流し込んだ水分は、全て体内へと逃げ出してしまったのではないだろうか。
開かれ続け、声を出し続けて乾ききった喉を潤そうと、カミュは裸体に申し訳程度の毛布を絡ませたまま腕を伸ばして、随分と前に手放したグラスを取った。
底に残った僅かの酒を喉へ流し込む。常温がさらにぬくめられて、味がわからない。
這うようにしてさらに手を伸ばして瓶を取ろうとした腕は、背後から圧し掛かってきた身体に押さえつけられて、強引に仰向けに転がされた。虚ろな視界の先にある身体が、ためらいもなくワインを瓶から直に呷るのが見える。
喉が渇いたのだ、と擦れた声で紡ぎだした言葉を飲み込まされて、さらに口腔へたっぷりと酒は流れ込んでくる。
やはり瓶の中のワインも、生温かった。
こく、と喉を鳴らし、今度は与えられた酒を飲み下したカミュのしっとりと汗に濡れて額に張り付く髪をシュラは掻きあげ、撫でるように梳きだした。
燃え盛る炎の前でそれ以上の情熱に塗れて時間をかけて抱き合い、全身へ掻いた汗によって湿ったシュラの髪も、いつになく重みを増して薙いでいる。力の抜けた身体を腕の中に収めて、毛布を手繰りよせて埋もれる。
「子供のように汗を掻くな。お前は」
「……シュラ。毛布はいらない。」
「駄目だ。汗を掻いた後は身体が冷えると教わった」
「誰に?」
「……俺を育ててくれた人に」
「サガか?アイオロスか?私はアイオロスに、寒い時は人肌が一番温かいと教わったから毛布はいらないのだ」
カミュは、なに、と小さく呟いたシュラの隙をついて腕の中から抜け出した。身体に巻きついている毛布を剥ぎ取りながら、胸元へ手繰り寄せ、丸めた毛布に圧し掛かるようにして俯せに身体を反転させる。柔らかな毛布に頬を半分ほど埋め、視線だけでシュラを見上げた。
「それは人肌じゃないだろう」
「いいのだ。この態勢が気持ちいい」
腕の中からすり抜けて、僅かにできた距離をぼんやりと見つめ、シュラは秘かに態勢をずらしてにじり寄ることで、その距離をさりげなく詰める。横臥したままに見えるカミュの横顔。頬に映り込む間近の熱を帯びた炎と影が、その線を陽炎のように揺らした。
まるで夕暮れに染まる色とよく似た赤の陽炎は、揺れる。
シュラはその揺れたものを途端に儚いものであると思う。
無意識に手が伸びる。
頬を触れられて向けられた瞳が、まるで夕暮れに浸食されていくように光彩を変える。
静かにシュラは語りだす。
「カミュ、この街はな。確かに俺の故郷だが、正確には聖域に赴くまでの間過ごした街、というだけなんだ。一体どこで俺が生まれたのかはわからない。というか、俺はよく知らない」
「……なんだって?」
「昼に訪れたカテドラルがあるだろう。あそこには昔、親のいない子供を集めて育てる施設のようなものがあったんだ。俺はそこで育った」
「貴方は孤児だったのか……」
「まあ、そんなものだ。母親の顔は知らない。父親も知らん。でも、そこにいる頃、使いの最中一度だけ見ず知らずの老婆に突然道端で謝られたことがあった。まったく知らない女の名前を呼びながら、俺の手を握ってぼろぼろと泣き、頭を下げた。…今思えば、それは母の名前だったのかもしれないと思っている。それからすぐに聖域に来たからその老婆とは二度と会うことはなかったが」
「あのカテドラルが貴方の家であったのだな。それで毎日、と」
「教会の掃除をしたり、ブリキの缶を持ってミルクを買いに行かされたりした。毎日ピレネーから木車にのせて牛飼いや羊飼いがミルクやチーズを売りにきてな。俺は大きくなったら漠然とそういう人間になると思っていた。ピレネーで牛や羊を育て、街へ売りに来る。そういう大人になるものだと思っていた時期をここで過ごした」
「そうだったのか」
語られていく言葉を聞き漏らすまいとでもいうように、傾けていた赤い視線はシュラをどこか落ち着かない気分にさせる。思わず横たわるカミュの腰へ腕を伸ばして抱き寄せた。
「よほど聖域に連れて行かれた時のほうが恐ろしいというか、もの悲しい気持ちになっていたような気がする。まるで別の世界に連れていかれるような気分で…もうあまり覚えてはいないがな」
頬を埋めるように、髪に鼻先を埋めてゆっくりと囁くシュラの事を、カミュは反対に這い上がるようにしてすっぽりと腕の中へ抱き締めた。一瞬驚くように詰められたシュラの呼吸が胸元を掠めるが、そのまま縋るように温かい重みを預けられる。
「あのカテドラルのステンドグラスは、そんな幼い頃の貴方のことをよく見ていたのだな」
「ずっと性別を間違えられたままだったがな」
くつくつと、胸元が小さく振動する。
カミュもまた、小さく肩を揺らして笑み、あやすようにシュラの髪に指を絡めて掬った。
「あのステンドグラスを見る度、神の概念などわかってもいなかったのに目が離せなくなった。幼いながらに心を奪われるものは一体なんだろうと思ったことがある」
「無意識にでも、幼い頃に貴方が求めていたものではないだろうか。貴方はあの絵を女性であると、聖母であると思っていた。それはやはり、」
母であった女性の面影なのではないか、とカミュは内心で思うが言葉にはせず、髪を掬う行為を続ける。
「きっと俺が幼い心を奪われていたのは、あの光に透けて輝く硝子の色であるように思う。あの場所だけ突然照らされたように明るくなる原色の青や赤や紫の色。その色そのものを見ていたような気がする」
「うむ、それは少し難しい。シャカあたりならすぐに理解できそうなのだが」
「アイツこそ芸術などに興味はないだろう。まあ聞け。だから俺にとっての聖域も、そんなものだということだ」
少しだけ困ったように息を吐き出した胸元で、見えないカミュの困った表情を思い浮かべて、シュラはふと頬を緩めた。
おぼろげな灰色の遠い記憶の中にある、神々を彩った原色。それは神に心を奪われているからなのか、色そのものに奪われているのかわかりはしなかった。
「シュラ、ますます私はわからなくなったのだが、どうすればよい」
ますます困ったように助けを求めて落ちてきたカミュの声音がおかしくなって、シュラは肩を揺らしてからかうように笑う。
「どうもしなくていい。戯言だと思って俺をこうして抱き締めていればいい、例えば俺が、」
と、シュラはそこまで言い掛けて言葉を切った。
埋もれた腕の中で瞳を閉じて見えるのは、闇なのだ。
育った街を出、さらに聖域を出て修行に戻ってきたピレネーの地で、シュラは闇の中の色に気付いた。またその色がどこの場所に在るものなのかも気付いた。
気付き、再び色の在る場所へ戻った時に、シュラはその色の一端を自らの手で奪った。
色に塗れたままで闇に沈み、こうして差しのべられて抱き締められる腕が憎いと思った。
沈むだけでは許されない闇の中に立ち尽くした時、シュラは与えられる優しさのようなものが憎くて憎くてたまらなかった。優しげな腕も感情も熱も、立ち上がる力を挫くだけのものに過ぎなかった。与えられるものがあり、それを受け入れ、それでもなお立ち上がり、その場所へ立ち続けていられるほど色を失くして一人で立ちあがることは、生易しい現実ではなかったからだ。
シュラは深く息を吐き、肩の力を緩めた。
カミュはシュラの言葉を待った。
「……例えば、俺が嫌だと言っても、お前は抱き締める腕を離さないとは思うがな」
神の腕に抱き締められた赤子は幸せであるか。
カテドラルに赴き、あのステンドグラスを見た者の心に浮かぶのは、きっと神に守護された幸福な赤子の未来だろう。穏やかな生だろう。だが、腕に抱かれた赤子の本当の心は知れないのだ。誰も知ることはできないのだ。
そこに人は、利己的な愛を見る。
「自慢ではないが、その自信は揺るぎなくある」
利己的な愛に塗れた腕を必死に伸ばして、それでも抱き締められる利己的な愛をどうして跳ね除けることができないのか。跳ね除けるのではなく力強く引き寄せたくなるのか。
躊躇いもなく、むしろ得意げに言い放ったカミュを抱く腕へ、シュラは力を込めた。
「今日はこのまま眠るか。朝まで俺を離すんじゃないぞ。明日はもっと寒くなる」
「雪が降るのか?」
「……ピレネーはもう降っているはずだ。凍えるぐらい寒いぞ」
「シュラ、私は貴方が修行をした場所を見てみたい。明日はピレネーへ行こう」
「雪が降ると言っているのにか?…本当に何もないところだぞ」
「よいのだ。私はピレネーへ行きたい。貴方が必死になって聖闘士になるために生きた場所を感じたいのだ」
くべられず、勢いの弱まった炎が、抱き合っていた時よりも暗くなった部屋を明滅させる。ごとり、と炉の中で灰になった木が音を立てる。
一層強く抱き締めてきたカミュの腕の中で、シュラは、うつらうつらと心地良い意識を沈めていった。
翌朝。
一つしかないベッドで眠ることもせず、冷えた床の上で目を覚ましたカミュは、抱き締めていたシュラの剥きだしの肩が冷えていることに気付いて、毛布を手繰りよせた。
窓から感じる朝の気配にはまだ、完全に太陽が溶け込んではいない時間であった。
穏やかに寝息を立てるシュラを起こさないように、そっと身体を開放して起き上がり、抱きついていたままの投げ出されている腕まで毛布で覆う。
カミュにとっては、この朝の空気がそこまで冷たいものだとは思わなかったが、一糸纏ぬ身体でうろつくのはいかがなものかと、もう一枚の毛布を掴んで肩に纏ってからそっと立ち上がった。
室内と外の気温差で四隅が曇って煙るように白くなりかけた窓から、カミュはシュラの故郷である街の風景を覗き見た。
まだ暗い早朝に、人の気配はない。それでも刻々と始まりの気配は迫りくる。
街並みの隙間からところどころに見える背景の山々は、シュラが宵闇の中で言ったように、薄らと白くなり、さらに白い霞で辺りを包まれているように見えた。
霞む山間の稜線をじっと目で追っていると、もそりと背後で気配が揺らめいて動き、う、と小さく呻きながら、大きく欠伸を零すのが聴こえる。
それでもしばらくは夢と現を彷徨っているように無言だったから、カミュはそのまま窓の外を見つめ続けた。山の頂に靄がかかっているのなら、この場所にも今日は雪が降るのだろうか。
ギシっと、立つ窓辺の隣のベッドが大きく軋み、シュラが毛布に包まったままでカミュを見上げた。
「……おはよう。シュラ」
「……寒い。ああ、お前は何してる」
寝ぼけ眼を必死に擦るシュラの姿を見て、カミュは目を細める。
「シュラ、もうピレネーは雪が降っているな」
「ああ?…ああ」
まだこの街に雪は降りてきていないが、シュラの故郷の雪を想像しながら、カミュは再び視線を窓の外へ向けた。
静かなピレネーの山中で、厳しい雪と寒さに耐えながら修行に励むシュラの上へ落ちてくる雪。その雪は儚く美しく、時には幼いシュラの心を静かに包んだかもしれないが、それと同時に凍てつく寒さと肉体の限界、迫りくる死の恐怖を与えて吹きすさび、恐ろしく吠え立てて、襲いかかってくることもあっただろう。
カミュが知っている雪はそんなものだった。そんな雪はウルヘルの街で、シュラの上にも降り落ちてきたのだろうか。
カミュは、だからこそ、この場
所の雪が見たいと改めて思う。だからこそ、雪とは愛おしいもののような気がしてならないと、シュラの語った昨夜の言葉を反芻する。
抱き締めていろ、と囁いた言葉には、ただの甘い睦言だけではないものがあった。
カミュはそれを知っている。
抱き締めている、そう返した言葉の中にもただの甘い囁きだけを込めたわけではなかった。
聖域で伸ばした腕が抱き締めたものは、まるでこの雪のように儚く美しく、凍てつき痛みを与えて、優しいものだった。
その郷愁が同じものであればいい、カミュは安らかな腕の中の寝顔を見ながら、眠りにつくまでそんなことを思っていた。
「……行くのか?今日。俺はまだ眠い」
「そうだな、今日はやはりピレネーには行かず、一日ベッドから出るのをやめようかと思う」
静かにシュラの髪を撫でながら、カミュは微笑む。
「服は?」
「もちろん着ない。何故ならば外に出ないからだ。寒かったら人肌で温め合えばいい」
「飯は?」
「買い物をした時に買ったナッツとチョコがある。腹が減ったらそれを食べればよいのだ」
「怠惰だな」
「いいのだ。私は怠惰なのだ。せっかく貴方の故郷にいるのだから、怠惰にゆっくりと今日は窓の外を眺めて過ごすのだ」
「ずっとか?」
「ずっとだ。それで明日はピレネーに行く。それでどうだろうか。シュラ」
「悪くはないな。強いて言うなら今俺は寒い、というところだけが問題だ」
「そうか。私も今丁度寒いと思っていたところだ。できれば今すぐに温まりたいと」
「ではまず、お前が俺を熱くして、次は俺がお前を抱き締めよう」
「貴方のほうが先の誕生日だからな。だが、私も貴方からの祝福を貰う旅なのだ。忘れて貰っては困るのだ」
「安心しろ。明日ピレネーに行ったら、俺が料理を食わせてやる。修行の時に食ってた物のフルコースだ。川で手づかみでとった魚のカルパッチョ、撃ち落した鳥とカエルの丸焼きに、木の実のサラダ、デザートは蜂蜜なんてどうだ?」
「では、それを楽しみに、今は貴方を頂こうとおもう。それからもっと二人で話がしたい」
じゃあ満腹になったら聖域へ帰るか、と毛布ごと抱き竦められた頭上から響いてきた言葉と体温にカミュは酷く安堵をした。
帰る場所を思う。
帰る場所に在れること。
「残さず食えよ。」
「わかっているのだ」
徐々に二人分の体温で温まってくるシーツの上で、唇を重ねながら、カミュはピレネーへ行ったあと、もう一度あのカテドラルへ行ってみたいと思った。
ファサードのステンドグラスがもしかしたら、明日は聖母に見えるかもしれない。