いつかメモに投げたもの
およそ私の知る卵の概念の大半は、ある一つの食材というものであり、食物の嗜好を言えば、好きでも嫌いでもない。食卓に提供されれば食べるし、食うものが卵しかないという状況になれば喜んで食すだろう。私自身は卵に対しての思い入れはさほどないが、極寒のシベリアの地で、鶏卵は安価に手に入る貴重な栄養源だった。だから、私の中で卵という食材に紐づくのは、弟子達がこぞって茹でた卵を取りあっていたという記憶と、茹で卵一つで繰り広げられた、くだらなくも微笑ましい喧嘩の思い出だ。
私にとって、あくまでもその程度の認識でしかない食材なのだ。
二本の腕が、器用に私の腕を操って、乾いた白い殻を銀のボウルにぶつけた。不意打ちの驚きを隠した私の溜息と、亀裂の生じる微かな破壊の音は、どちらがよく響くのだろう。
じわりと亀裂から滲む透明が一筋、その滑らかな曲線を伝う。傷一つない美しい表面を傷つけられた悲しみの涙なのか、狭く小さな殻の中から、広い世界へ飛び出る解放のひとしずくであるのかはわからない。
耳元にかかる背後からの吐息が、これからよくない事をすると囁いている。
みずみずしい白肌に、醜くついた細い切り傷へ、彼の指に支えられた私の指が入り込み、卵はあわれにも真っ二つになってしまった。
「…ああ」
どのみちこれから同じ事をして、あげくにふっくらと盛り上がった黄色の丸みを潰して撹拌し、炒めてしまおうとしていたが、己の意志ではないところで行程を見せつけられると、ふと慕情がでてしまう。私の漏らした哀れみの声が、彼に届いたのかどうか。その身を破壊される為にボウルの底へ沈められてしまうと思った黄身は、落とされずに右手の殻の中に残された。親鳥の腹で育ち、産み落とされてから今の今まで、柔らかく生命を包んでいた透明のベッドは左手だ。
彼は無言のままである。
本人が自覚をしているのかどうかはわからぬが、シュラはこうしてキッチンにいると、よくからかいにくる。そこをあえて口にすると、恐らく不機嫌になる事柄なので、なるべく自然体を装って、今後の卵の行方を聞かねばならない。このまま、ボウルに落とすのか否か。卵は食したいのか否か。
「シュラ、卵は」
食べたくないと言われたら、仕方がないがこれはこのまま別の皿に移動して、あとで私が片付ければいいのだ。卵は貴重な栄養源であり、栄養とは生命に関わることだ。私達は生命を燃やして戦うのだから、ここにある栄養を無駄にすることは、女神のご意志に反することにもなる。厳しい土地における飢餓の経験は彼にもあるだろうから、その点については心配していないが、私は卵が食べたい気分なのか食べたくない気分なのかが知りたく、口を開く。状況を察するように、腕が動く。右の手にあった白身の残りに浮かぶ黄身は、おごそかに左手の白身の中に移っていく。荒々しく尖る殻の縁にかかり、半分の卵から溢れた白身がボウルの中に滑り落ちる。
空になった右手に、わずかな重みを感じる左手。もう一度、逆再生のように左から右に黄身は滑って、まるで包まれた布をはぎ取られるように、白身は冷たい銀の底に沈む。
私の手に添えられている彼の手は、冷たくはない。
黄身と白身をわけたいのだということは理解をした。左右の殻にほとんど白身は残っていなく、黄身は曲線の表面をいっそう輝かせて、失ってしまった優しい寝床に、気付かないふりをしているようだ。掴まれた手のひらに力が入る。
身ぐるみを剥がしてしまった黄身は、あまりにも無防備だ。そして柔らかい。研ぎ澄まされた鋭利な殻の縁に触れでもしたら、一瞬で張り詰めた薄膜は破れ、とろとろと中身が漏れてしまうだろう。冷たく硬い殻と白身に守られて隠された黄身は、もしかしたら自ら望んで秘めていたのかもしれない黄身は、生命を晒してしまうのだ。
たかが卵だが、されど卵であり、まさか卵にと思う己自身にも気付いてたじろいだ。
腕が動く。背後からのしかかる重みが、増す。
黄身は私の心配をよそに、殻に鎮座されたまま顔の横を通り過ぎる。するりと運ばれていくのは、肩越しに顎を乗せて身を乗り出した彼の口の中だ。
壊れることなく運ばれた生命が、彼の糧になるのならば、私の抱いた一抹の不安は、不安ではなくなる。
ああ、よかった。シュラは黄身だけを食したかったのだ。
安堵をする私を横目に、黄身を飲み込んだ唇が迫ってくる。それにしても随分と珍しい食べ方をしたなと笑いながら受け入れようとした時、ちらりと、いまだそこにある黄色の生命が見えた。
ぎょっとして離れようとしたのに、頭を抱え込むように固定されていて、動かすことはできない。触れる瞬間、彼の目は私ではなく唇を見ていた。あけろ、というように顎が指し示す。
「…っ」
するりと口の中に滑りこんでくるそれは、生命である。私は、どうすればいいのかわからなくなり、笑みさえ浮かべないが、確実に楽しんでいる黒い瞳に訴える。後頭部に潜む指が、促すように二三度触れてくる。
ふざけて口の中で転がす飴玉を奪ったことも、奪われたこともあったが、甘くてそのうち溶けだしていく硬く小さな粒ではないのだ。少し力を込めれば、破れてこぼれる生命だ。
「ンンっ…ぅ…」
半ば強制的に舌でこじあけられて、器用に奪われる。すぐにまた、唇づたいに、生命のやり取りをする。歯が当たらぬようにという緊張と、予想もしない遊戯で、今にも汗が噴き出してきそうに体が熱い。私達の往復で、生命は人肌に温もりを持った。いっそのこと、火を通してしまえば心もとない柔らかさは硬くなる。
だが、壊してはならぬと思えば思うほど、なおその柔らかさを楽しんでみたい衝動に駆られる。
私は、彼と共にいるようになってから、矛盾から生まれるささいな楽しさや喜びのようなものを、耐えることができなくなった。
脆く儚く柔らかい黄身を、少しずつ奥まで滑らせて、きつく歯を立ててしまう想像をした。奥の歯が生命を掠めている。ふわふわと、今にも溶けだしそうで、消えない小さな黄身だ。私は、熱に浮かされていて、また唇で生命のやり取りをする行為の無意味さと、なぜ始めたのかという彼への疑問をすっかり忘れた。
いつのまにか、背後にあった体と向き合っていた。
顎を掬われて、促されるままに口を開く。シュラの顔が迫ってくる。
「…ン、ンっ!……あ…ッ……ぅ…」
力を抜き、委ねようとしたのに、私はふいに、下半身のあらぬところを握られて、思わず声をたててしまった。同時に、口の中でねっとりと、破れて溢れだした生命があった。
咄嗟に閉じた瞼のむこうで、間近の視線を感じる。続けざま、強い力で揉みしだかれる指の先は、無造作に割られた殻のいびつさと同じだ。息をしたくて、喉を流れる黄身を飲み込む。生温い舌が、口元から顎先を舐め、一気に喉元まで辿る感触があった。
「溢すなよ。もったいないだろうが」
「うっ…ン…もったいないなど…、アッ…一体どの口…が?」
この口だと、指先をもってして示した場所により、私は今、シュラが食べたいのは卵ではないのだということを知る。
あとで残った白身には砂糖を加え、メレンゲを立てる。
甘い食事も、時には必要なのだ。