雪の日、滑走
空の様子を見上げ、溜息をつく。
執務の合い間、宮を発つ間際、鍛練の最中。
どこか落ち着かぬようなシュラの横顔を眺めながら、カミュもここ一週間、空模様を眺めていた。
はじめは、太陽の見えない薄ら寒い雲間を憂いているのかと思いもしたが、その次の日は、吹く風こそ冷たかったものの、抜けるような晴れ間になった。
けれども、シュラは寒空の中で懸命に花を咲かせたような陽の光を浴びても、溜息をついた。それから晴れ日は数日続き、また日は陰り、昨日は凍えるような雨が降った。
数日間の晴れは、まるで冬に弱った太陽の、最後の灯し火であったと思わせるほど、聖域の気温は一気に下がる。
カミュにとっては、たいしたこともない体感温度だが、他の者はそうではないらしく、執務で見かけた皆の衣服は、おのずと寒さをしのぐ厚手の物に変わっていた。ミロに至っては、執務の間も首元へ巻き付けたマフラーを外そうとせず、シャカに至っては、恐らくアイオリアからつけろと言われたのだろう手袋を脱ごうともせず、それで執務ができるかと、サガからたしなめられてもいた。
それほどに、昨日は寒い雨だった。
執務を終えた後、カミュは、シュラと宝瓶宮で共に夜を過ごしたのだが、宮へ入る前にまた溜息を耳にし、夜ふけに疲れきって眠りにつこうとする前にも、ふいにベッドを抜け出して、空を確認したシュラは、また息を吐いた。
空が一体どうしたのだ。何があるのだ。何故溜息をつく。
問い掛けるのには、絶好の機会であったのにも関わらず、カミュは眠気を堪えることができず、またすぐに、ベッドへ潜りこんできたシュラのぬくもりに襲われ、目を閉じた。朝がきたら問えばよいのだ。シュラは逃げない。
眠りに落ちる間に、カミュはそんなことを思った。
そして、朝。
無意識に寝がえりを打ち、いるはずの気配が傍になく、カミュはぼんやりと目を開けた。
「…うむ?シュラ?」
しんと冷えた室内には、水分の足りない掠れ切った己の声だけが響く。返事はない。シュラが寝ていた場所に手を伸ばして触れると、ずいぶんと早く目が覚めたのか、シーツからはすっかり体温が抜けきっていた。
用を足しに行ったまま、空腹を我慢できなくなって先に食事でもしているのかと、カミュはいまだ抜けだしたくない毛布にくるまりながら、考える。
執務のない朝に、例え先に目が覚めたとしても、シュラは大概カミュが起きた時には隣にいるし、起きるのならばあの手この手を使って、目覚めを促してくるのだ。長年の聖闘士という自覚は、眠りの底を浅くさせる。それで問題がないような体に変化をさせる。隣にあった気配が消えても、目が覚めないほどの深い眠りに落ちていたことに、カミュは誰に見せるわけでもなく、苦笑した。
聖闘士としては自重をすべき事柄だけれども、そんなささいな事実に、寝起きの一番に胸へ温かなものが灯る。
温かいと感じることができる朝の目覚めは、なんとも穏やかで、好ましいものだった。
寝起きが悪いわけではないが、良い一日が過ごせそうな高揚感に包まれて、それからカミュは気持ちよくベッドから起きあがった。
服を身につけながら、シュラの気配を探ってみるが、宮の中にはない。
なにかやり残した仕事でもあったのか、それとも体を動かしたくなって、早朝の鍛練にでも行ったのだろうか。
ベッドから降りるとなおのこと、ひやりと足元にからむ空気が、昨日よりもより重く、冷たさを増している。懐かしい気配だ。
外の様子を薄々察知しながら、カミュはシュラを探しに外へ出た。
予想通り、雲の垂れこめた鈍色の空からは、白い雪が落ちてくる。
水分を多く含んだ綿菓子のような雪は、すでに磨羯宮から宝瓶宮への階段にも降り積もって、今にも段差がわからなくなりそうだった。聖域が白く染まっている。吐き出す息も、当然のように白く姿を現して、消えた。
この分だと、闘技場も一面に雪が積もっていることだろう。
シュラもまた、この雪で、かつての修行地を思い出して、赴いたのかもしれなかった。
聖衣を手に入れるための修行は、辛く苦しいばかりだったが、それでもかの地が懐かしいと感じてしまうのは、戻るべき場所を聖域以外にもたない聖闘士の、習性であるのかもしれない。
辛苦の土地を、懐かしいと思えるだけ、成長したということでもある。
だが、修行時代の辛さをも凌駕するほど、過ぎた現実で辛苦を知ったという事実でもあった。ふと過った思考が、せっかくの寝起きに気付いた熱を奪ってしまいそうで、カミュはもう一度、息を吐きだし、きんと透き通る清浄な空気を吸い込む。喉の気管を滑り落ちていく酸素は、僅かに残る眠気と憂愁につつまれかけた頭を、すっきりと昇華させてくれる。
「…ゆくか」
カミュは、清々しく、宝瓶宮からの階段を降りることにした。
目標は、シュラだ。
はたして、磨羯宮にいるのか、闘技場にいるのかもわからない。このような雪の天気だからこそ、あてどなくシュラを探し歩くのもまた楽しいような気がして、あえて気配を探ることはしなかった。聖域の中でシュラを探す、勝手な遊戯だ。
そう言い聞かせる一歩目は、どことなく浮かれていると、カミュは自分でも思う。念のため、雪に埋もれた段に足をとられないように注意をしながら、宝瓶宮から磨羯宮への階段を下る。二歩目を踏み出そうとした時に、三本の奇妙な直線が、雪上に描かれていることに気付いた。
不思議に思って目をやれば、それは、ただ真っ直ぐに階段の終わり、すなわち磨羯宮の出口まで続き、そこで途切れている。線は、等感覚で交わることもなく、まるで三又に分かれた棒のようなものを引きずってできた跡のようだ。不可解なと思いながらも、カミュはその跡を、かつてどこかで目にしたことがあるような気もして、一体どこで見たのかを思い出しながら、横目に歩く。
雪上に残る規則的な跡から目を離さぬように、さらに数歩を進むと、背後から突然ぎしっ、ぎしっ、と柔らかなものが押し固められ、こすれるような奇怪な音が微かに聞こえ、立ち止まった。雪を踏み固めて歩くような小さな音は、ある一定のリズムで鳴り、カミュの鼓膜へ届く。音は、自宮の方角からだ。ゆっくりと振り返り、念の為にと気配を探ったところで、カミュは拍子抜けをした。それは紛れもないシュラの気配だ。音をさせているのはシュラなのか、と思いながらカミュが待っていると、ぬうっと宝瓶宮の入口から姿を現したのは、直径が三メートルはあろうかと思う程の雪の球だ。
カミュは思わず目を見張り、何故そんなものがと、まじまじとそれを見た。運んできたのが、シュラだということはわかりきっていた。
ごろ、ごろ、とそれはゆっくりと近づいてくる。
階段は雪によって、もはやただの斜面だ。そんなものが斜面に辿りついたらそのまま転がっていってしまうことだろう。咄嗟にきびすを返し、カミュは雪玉に近寄り、腕に力を込めて支えた。
「何をしてるのだ?シュラ」
塊越しに声をかけると、雪の向こうからシュラが顔をのぞかせる。
「ああ、オマエが押さえてたのか。なんで動かないんだと思ってた」
「雪が積もっているが、ここから先は階段なのだ。転がり落ちてしまうぞ」
「もうそんなところか?雪玉があると距離感がわからん」
悪びれもなく、あっけらかんとシュラは答え、雪玉を転がすのを中断した。
「何故こんなものを?雪遊びでもするのだろうか」
ゆうに頭の先を越える大きさの雪玉を作るには、相当の量が必要だ。
カミュは、シュラへ続けざまに問いかけながら、よくよく眼前に迫ったものを観察していると、ぽつぽつと、ところどころに赤い色の何かが埋まっているのが目に入る。一体何が、と思いながら返事を待つ間に、指先で軽く掘ってみると、雪玉に飾りのようにまぶされている赤いものは、凍りついた薔薇の花弁だった。
「まさか、貴方はこれを双魚宮からここまで運んできたのか!?」
驚きながら声を張ると、シュラは凄いだろうと言わんばかりに、ニヤリと笑った。
「もっと先だ。教皇の間の階段から降りてきた。双魚宮から宝瓶宮の途中ぐらいから転がすのに力がいったが、ここまででかくなった」
雪玉が大きくなるのも当たり前だ。この玉には、教皇の間から双魚宮の階段に積もった雪だけでなく、双魚宮から宝瓶宮間の雪も含められている。
なかば呆れながら、カミュが見返すと、シュラはもう一度得意気に鼻をならして、そこをどけと言った。その表情は機嫌が良いどころの騒ぎではない。上機嫌だ。手を離しても、雪玉はなんとかまだ平衡を保っていて、転がっていく様子はない。カミュがゆっくりとその場を離れ、階段を昇ってシュラの傍に近寄ると、その鼻先と頬は、寒さで赤みを増していた。けれども御機嫌だ。
「見てろよ」
雪玉を支える指の先も真っ赤だと、カミュが思う間に、シュラはあろうことか勢いよく雪玉を蹴飛ばした。
「なにッ!?」
力をセーブしていたのか、雪玉が弾け飛ぶことはなく、緩やかに一回転をしてそこから階段という雪の斜面を、すさまじい速さで転がり落ちていく。
「せっかく押し止めていたのになんということを!」
「これでいいんだ。まあ見てろ」
見ていろと言われても、とカミュは内心で独りごちる。このままでは雪玉は、磨羯宮に激突するしかないのだ。堅牢な宮が壊れることはないだろうが、壁に亀裂程度ははいってしまうかもしれなかった。
はらはらと、行方を追うカミュを尻目に、シュラは突然、その場から転がっていく雪玉へ向かって、大きく跳躍をする。
一瞬で動く気配を目で追うと、次の瞬間、シュラは巨大な雪玉の真上から拳を降りおろす。ずうん、と地鳴りのような衝撃と共に、階段が終わるまであと数メートルもないところで、あれだけ勢いよく転がっていた塊は粉々にくだけて、押し固められた雪が辺りに雪崩のように飛び散った。
磨羯宮の出口の付近に、小さな雪の丘ができる。
「ちょっとそこで待ってろ」
シュラは足先で、小高い丘をさらに踏み固めながら、カミュに言った。
待っていろといわれたから、待ちはしたが、カミュにはシュラが一体なんの遊びをはじめたのか、一向に思いつかなかった。
「雪が、足りない」
「うむ…そうか」
雪玉を破壊してできた雪の丘を、あらかた踏み固めたシュラは、そのまま磨羯宮の中に入ると、片手で何かを引きながら、カミュのいる宝瓶宮の入口まで戻ってきた。それは、水瓶座聖衣の肩当てをひっくり返したような、不思議な形の薄っぺらな箱のようなものだ。色は艶を帯びて赤く、手で引くためなのか、片側のふちの部分に縄が通されている。
不思議な箱を凝視していたことに気付いたのか、シュラはああ、と独りごち、口を開いた。
「これはソリだ」
「…ソリ?雪上を滑らせるあのソリか?これが?」
「そうだ。紫龍からもらった。オマエと一緒に買いにいった土産を渡しに行った時に、もういらぬというから引き取った」
隣でシュラは、雪深い五老峰で老師を運ぶために用意しただとか、用意したけれども老師は赤いソリで移動させられるのは嫌で、結局しまわれたままだったとか、経緯を語っていたが、カミュは話半分で聞いていた。目の前に現れたソリが、今まで目にしたこともない形状のものだったからだ。
「…オイ、聞いているのかオレの話」
「うむ。聞いている。老師はこのソリに乗るのが嫌だったのだろう?」
「そうだ。今では十八歳というみずみずしいお身体になったために、もはや不要になったというからな。こんなソリはピレネーでも見たことがない。何かの役にたてばいいと思いもしたが、なにより厳しい山中の生活で、少しでも老師の負担が減るようにと考え、用意をした紫龍の気持ちを無駄にしたくはない」
「それはなによりなのだ。して、貴方はこの赤いものがソリだというが、ソリにしては随分と小さくはないだろうか。単純に荷物を乗せ、手で引いて使用するのだろうか」
カミュがシベリアの雪上で目にしたことがあったのは、大人数人が乗っても問題はないようなどっしりとした木組みものだった。重量のあるソリを、トナカイや何頭もの犬が引き、人と荷を乗せて氷の上をかけていく様を、目にしたこともある。だが、シュラがソリだと言う赤いものは、あまりにも小さい。どうみても、幼子が乗って丁度一人分だ。
カミュが、視覚のみでおよそのサイズを推し量っていると、シュラはそうではない、と口にする。
「オレも乗れる」
「…そんな頑強なものには見えないのだが」
「乗れると言ったら乗れる。それにすでにこれに跨り、滑り降りたぞ」
「なんだと」
「オレ達が知っているソリとは違う。このソリは斜面を滑る専用のものだ」
どうだと言わんばかりに再び、不敵な笑みを浮かべるシュラは、驚愕することをまるで見抜いていたかのようだ。
驚愕をするに決まっている、とカミュは思う。
アルデバランほどに体格が良いわけではないが、シュラは子供ではない。
腕はともかくとして、小さなソリに跨って、どう考えても足はほぼ、はみ出てしまうのだ。それに体重もある。
「よしんば跨れたとしても、尻だけしか入らないのではないか」
「そんなことはない。工夫をすればソリにおさまるし、速さもすごい」
「速さだと」
「ああ。犬だのトナカイだの、動物に引かせるのと勝るとも劣らないスピードだ。だが、雪が足りない。滑ってそう感じたから、オレはオマエが起きてくるまでに雪を運ぼうと思ってだな」
「それで随分と早くに起きたのか」
「…それはたまたま目が覚めただけだ」
カミュは、ぶっきらぼうな返事を聞き、合点がいく。
シュラが、毎日空を見上げていた理由だ。
晴れでも雨でも曇りでも、溜息をついたのは、雪が降るのを心待ちにしていたからだ。雪の上で、ドラゴンから引き継いだこのソリに乗りたくて、仕方がなかったのだろう。思わず、口をついて飛び出してきそうな言葉があり、頬は勝手に緩んでいくばかりだったが、カミュは必死に堪えた。せっかくの上機嫌なのだ。シュラは。気付いた理由を、なんとか胸の内にしまいこんで、カミュはそうか、と静かに返した。取り繕っても、心を包む温かく柔らかいものは、消えることなどなかった。カミュが一人で温まっているうちに、シュラはいつのまにかソリに腰を降ろしている。やはり、尻しか乗っていない。
「…シュラ、やはりそのソリは貴方には小さいと思うのだが」
手足の長さと、体格に不釣り合いなサイズと、目の覚めるような赤い色がまた、絶妙な加減を醸し出して、ソリにまたがったシュラの姿は、シュールな光景だった。
弱冠の滑稽さもあるものの、そんな姿ですら愛らしさを感じると、内心で独りごちるカミュにむかって、だがしかし、シュラは予想外の言葉を吐いた。
「小さくない。早くオマエも乗れ」
「…乗れとはどこに」
「前がいいか?後ろがいいか?」
まさかの言葉を飲み込めず、問い返してはみたものの、シュラは平然と前か後ろかと問いで返してくる。
前も後ろもない。正直なところ、シュラが腰を降ろしたソリの、前にも後ろにも乗る場所などない。思わぬ事態に、カミュが押し黙って困惑していると、シュラは前だったら、と、自らの両脚の間を指さし、後ろはこっちだと、背中を示す。
どう見ても、シュラの両脚の間に入るような場所はないし、後ろにも隙間はない。
「あの、後ろだったら貴方におぶさるとかそのような…?」
「は?そんなわけないだろ。オレの後ろに座って、背中につかまればいい」
「いや、そんな隙間はどこにも見当たらないし、それに足はどうすればよいのだ」
「腰に絡めればいいだろ。セックスの時みたいに」
「…貴方が言わんとしている体勢についてはなんとなく想像ができるが」
「ごちゃごちゃ言うな。とにかく乗れ。乗ればわかる!この楽しさが」
熱弁にも近いシュラの言い草に、カミュはそれ以上の反論が浮かばなくなった。
何を言ってもソリに跨るまで、納得をしないのだろうという、よく知っている頑固な一面も、ちらちらと見えた。
渋々、カミュはシュラの後ろに佇むと、赤いソリをまたぐ。シュラは気配を察知して、できるだけソリの前方に尻を寄せる。
両肩を掴みながら、腰を降ろしていくと、かろうじて尻はその狭い中におさまったが、乗るというよりも、尻の下にソリを敷いているような具合だった。
すでに腰を降ろしただけで、みし、みし、と硬いものが軋むような、嫌な音がする。
「…オマエ、体重何キロだ」
「体重か?八十キロはないと思うのだ」
「二人でだいたい百五十キロから百六十キロか。さっきよりもさらにスピードが出ると思う。足よこせ」
速さがでるだとか、でないだとかの問題ではないと思いながら、カミュは左の足からシュラの腰に絡めていく。その度に軋む音が増える。大きくなる。
「ほ、本当に大丈夫なのか」
「大丈夫だ」
強度の面での不安をカミュは問うたのに、シュラはいとも簡単に大丈夫だと言った。その瞬間に、敵前からの逃亡などしたこともないが、カミュはソリから逃げたいと思った。ぎゅうぎゅうである。
子供用のソリに、ぎゅうぎゅうにおさまっている現状の、俯瞰の有様を想像すると、なんとも言えない気分になった。みしみしみし、と限界を告げるようにソリは軋む。
「しっかりつかまってろ」
「…うむ」
前方に伸ばした足で、雪を掻くようにして、シュラは階段ぎりぎりのところにあったソリに乗ったまま、斜面を蹴った。
その実、大人二人分の体重で動かないのでは、と思っていたカミュの予想に反して、シュラの脚力は、ものの見事にソリをスタートさせた。蹴りあげた足は、すぐに折り曲げて縮こまるように膝を抱えると、風の抵抗が薄れるのか、滑らかにソリは速度をあげて、雪上を滑り降りていく。宝瓶宮から磨羯宮までの階段はそれなりに距離があるが、次第にびゅうびゅうと風を切る音が、鼓膜を震わせる。早い。しっかりとシュラの背にしがみつき、なんとも窮屈な姿勢ではあるが、カミュは風と雪の摩擦の音をじっと聞いた。なかなかに面白い。そして、あっという間に磨羯宮は目の前だった。どうやって止まるのだ、とカミュが声を張り上げようとした瞬間、シュラは抱え込んでいた両足を寝そべるように伸ばし、かかとに力をかける。
ザザッ、と雪が飛び散って、ソリは緩やかに失速したあと、シュラが作った丘の前で止まった。僅かの間、しんと辺りが鎮まる。
ちらりと、目線だけを送ってきたシュラの表情は、いわずもがな、したり顔だった。
「素晴らしいな!?」
「そうだろう。だから言ったろ?乗ればわかると」
「うむ!貴方の言う通りだった。宮から宮をこのような形で移動するなど、思ってもみなかったのだ」
そのしたり顔ですら、カミュにとっては高揚をさらに加速させていくものでしかない。両足で降りるしかなかった階段を、一気に滑り降りる。
それは、今まで知らなかった類の爽快感でもあった。
「もう一回やるぞ」
「うむ!だが、なぜせっかく雪を持ってきたのに、手前で止まってしまったのだ?もう少し滑りたくもあった」
知ってしまえば、もっとと止められなくなるものが、もう一つ増えてしまった。
カミュは、ソリへの昂りを実感し、なかばねだるように聞くと、シュラは待っていたといわんばかりに、薄く笑んだ。
「今のは、いわば予行だ。次は本番だ。二人分の重さでのスピードがあれば必ずできると実感した」
ククッと、喉奥で企むような笑い声さえ漏らしながら、それからシュラは、大胆不敵な案を、カミュに告げた。
「…速度を保ったまま、勢いをつけてこの丘を足場とする」
「足場…?なんの足場なのだ」
「オマエ、宝瓶宮からここまで滑って物足りないと思わなかったか」
「それは確かに感じた。できるならもう少し距離が欲しいが…聖域では宮が間にあるからな」
「そうだ。宮がある。だが、宮をもろともせずに超えられれば、その先には再び斜面があるだろう」
「も、もしや…しゃ、斜面とは…」
「そうだ。磨羯宮から人馬宮の階段だ!宮が遮るのならば、勢いをつけたまま雪の丘をジャンプ台として、そのまま宮を飛び越えればいい。そうは思わないか?カミュ」
「それは…その…実現できれば…とても素晴らしい案だとは思うのだが」
「いや、できる。オレとオマエならばできると確信した。だから…飛ぶぞ」
「飛ぶだと!?いや、シュラ、確かにもっとたくさんの距離を滑り降りることができたらとは思うが、物理的に磨羯宮の高さをその案で超えるのは無理があるかと、だな」
シュラの話を聞きながら、カミュは例えば滑走中に二人で小宇宙を高め、さらに加速率を上げるなどと、いくつかの実行可能な案が浮かびはした。だが、ソリで滑りながら小宇宙など燃やしたこともないので、実際のところ速さに変化があるのかどうかはわからないし、そもそも宮を飛び越えるなど、突飛な発想なのだ。
やんわりと不可能な旨を伝えてみるも、シュラは真剣だった。
できるわけがあるまいと正直に切り捨てることも、はばかられるほどに。
それになによりも、湧き立つ心を隠すこともせずにはしゃぐシュラの姿は、カミュに事実を述べるという行為への、罪悪感を生ませた。
待ちにまった、雪が降った。
「…わかったのだ。シュラ。飛ぼう」
カミュはソリから立ち上がると、片手で紐を持ち、もう片手でシュラの手を引いて宝瓶宮への斜面を昇る。また同じようにソリを尻の下に敷き、今度はカミュも滑り出しの時には、息をあわせて力の限り、雪を蹴った。
「早いぞ!カミュ!さっきよりも体感速度が早い!」
ごうごうと耳をつんざく風音の中で、シュラは楽しそうに声をあげる。今にも掻き消えそうなその声は、確実に最初の滑走よりも、速度を有していることを物語っていた。
返事をする代わりに、カミュはよりきつく、シュラへと密着してしがみつく。
勢いよく後方に流れていく景色、雪を滑る轟音。
今度は止まらずに、ソリは速さにのって、ジャンプの丘を駆け抜け――――数分後。
磨羯宮の出口付近には、丘に到達する寸前で粉々になった赤いプラスチックの子供用ソリと、そのまま雪山に勢いよくつっこんで、雪塗れになった二人が、茫然と佇んでいた。