春にまつわるシュラカミュ


「春とシュラ」

シュラは夢をみる。
磨羯宮のソファーにどかりと腰を降ろしたその瞬間から、麗らかな春の日差しと温かさに眠気をもたらされて、面白いように瞼が重くなり自然と身体の力が抜けた。
シュラは夢をみる。
ふわふわと宙に浮いているような心地良いけれども、一体全体此処はどこであるのかと思う程の桃色と紫色の光線が目まぐるしく動き回る暗闇は、どこかサイケデリックで気がふれそうだ。
聖域にこんな馬鹿げた場所があるとも思えないから、シュラの意識はぼんやりとこれは夢なのだろうなと思うが、光線が身体に当たる度にどこか落ち着かないような、そわそわとした妙な気分が膨れ上がっていくような気がしてならない。それは、身体のどこかが熱くなるような、身体のどこかが疼くような。
「…わけがわからん」
シュラが頭をぼりぼりと掻きながら独りごちた時、突如丁寧に整えられた赤い爪と見覚えのある腕が伸びてきて、顎先を擽った後に首筋を辿り、引き締まる胸板を二度三度と往復するように撫でそのまま腹筋をなぞった。その腕と手が、一体誰のものであるのかを悟ったシュラは、身体を弄られる事にさしたる抵抗をもたなかったがそれよりも、触れられているだけであるのに全身を包み込むようなどうしようもない熱が身体の奥で確かに湧いたのをひしと感じた。少しの音も声も聞こえない中で、白く浮き上がる腕が、二色の光線を浴びてより一層卑猥に見える。恨めしいと思うほどに研ぎ澄まされつつある皮膚の下の感覚はやたらと鋭敏で、次の動きに思考は期待をする。夢であるとは分かっているのに、シュラは思わず息が上がり、夢の中でも瞳を閉じた。
腕はシュラの身体のあちこちに触れて時折緩く爪を掛けたり、啄ばむように爪の先で挟む。
(…いやらしいぞカミュ…)
例え夢の中であろうと、誘うように動く手首の先の顔が見たくなって、シュラは思わず手首を掴んだ。
「顔を見せてみろ。」
捕獲された手の指が戸惑いを見せるように宙を彷徨うが、シュラはお構いなしに勢いよく引く。無音だった世界に聞きなれた声が聞こえる。
「あっ…わ、私を見るな…シュラ」
「…フッ…そんな抵抗をしても無駄だ。お前が誘った癖に」
「痛い…そんなに強く引いたら、」
「引いたら?」
「……気持ち良くて…落ちる」
「落ちる??」
意味不明な言葉を聞きかえした瞬間に、ドタッという衝撃と音が響いて暗闇が明るくなる。思い切り転げ落ちたソファの下で、シュラは我に返った。
寝起きのぼんやりとした頭と、格好の悪過ぎる体勢で床に転げている姿で、しばし呆然とする。
「やはり夢か」
惜しい事をしたと思いながら身体に感じた違和感にふと視線を落として気付き、少しだけ残念そうに、思いを口にした。
「春だから、か?」

「春宵」

「珍しいな。貴方がそんなものを食べるなんて」
「…なんだかな…突然甘いものが食いたくなった」
カミュが磨羯宮の扉を叩いて差し出されたのは、ビールだ。
まだ昼間だというのに、風呂上がりの濡れた髪のままシュラが口に運んでいるのは、甘いものがあまり好きではないのにも関わらず、砂糖が香ばしく焦げ付いたクレマ・カタラーナ。
「このビールはてっきり貴方がこれから飲むのだと思っていた。」
「ああ、俺は小腹がすいたんでこっちを食ってから飲む。アフロディーテがお前にもやれと持ってきたんだ。このビール」
「そうか」
「どうだ?うまいか?」
「うむ。うまい。それもうまいか?」
「…うまいようなまずいような」
皿を抱えて絶えずスプーンを動かしている癖に、シュラは少しばかり考えた後に首を傾げる。スプーンから柔らかなクリームを掬った残りが、皿の中にとろりと垂れる。流動的なクリームの艶と、仄かに漂う甘い香り。
普段は目にすることも出来ないドルチェを貪り食べる姿と、纏うことがない甘ったるい香りがシュラを包みこんでいた。
「……そうか」
呟きざまに口に流し込んだビールを、カミュはごくりと飲み下す。
瓶の先から唇を離して、視線を反らす為にふと見たラベルに書かれている銘柄はフランス産のビールであるのに名前はスペイン語。
ああ、だから、アフロディーテが渡せと言ったのか、と思う視界の隅で、シュラはまたクリームを掬って食べる。
ぺロリと口を離した隙間から少量のクリームが零れて、シュラは何気なく口元を汚すものを親指で拭い、拭ったあとの指先にも舌を這わせた。
「お前も食うか?」
「いや、私はいい」
「…俺の口から食わせてやろうか?」
「あまり腹はすいていな……なんだと?」
シュラのてらりと光った唇からついて出た言葉に、カミュの時間は一瞬止まる。暖かく穏やかすぎる程に差し込んで照らす日射し。
「……冗談だ」
穏やかな陽気に隠れて、何気なく、さりげない仕草と言葉。
意地悪く目の前で笑い、またドルチェに落ちる視線を心底恨めしいと思うのは、きっと浮かされた春の色の所為。それは「無法者」でも敵わずに。
「……アフロディーテには悪いが、このビールでは酔えない」
夜はまだ、遠く。

「春の猫」

花咲き誇る沙羅の園の宴は賑やかで騒がしい。
黄金の仲間達と、何故かその場に溶け込んでいる冥界の二巨頭と共に花を愛でながら酌み交わす酒は、風流の文字とは遠いが心が弾む。
グラスに注がれた透明で濃厚な酒の力はすぐに、カミュをほろ酔いの心地に変えた。バンバンと肩を叩きながら、何がおかしいのか酔って盛大に笑うミロを窘めてやろうとカミュが手元のグラスから視線を上げると、少し離れた場所でシュラがアイアコスと酒を酌み交わしていた。じっとその姿を見つめながら無言で動きを止めたカミュに、ミロはやや呂律の回らない口調で絡む。
「お前もっと飲めよ。カミュ!というか、吸え」
「何故酒を吸うのだ。酔い過ぎだろう、ミロ」
「…酔ってない…よってなどいないんだぞおれは」
口というものはこんなにも容易く嘘をつくのだな、とミロをじろりと無言のままで見た後に、またシュラに視線を戻す。カミュはじっと見る。
背中を向けていても恐らく笑っているのだろう、楽しそうな雰囲気の先にある背中とその肌を撫でるように。カミュは見る。
「なあ~なにみてるんだ?のめってカミュ」
指先で触れる、名前を呼ぶ。ミロにされている行動を、カミュは脳裏で秘かにシュラにする。送る視線の先でシュラの肩が揺れる。細めた瞳が確かにちらりとカミュを舐って、すぐに反らされる。
「ミロ。お前は飲み過ぎだ。水を持ってきてやろう」
「…あ?…ああ。飲みたい。水」
カミュはグラスの中身を一気に飲み干して、賑やかな沙羅の園から立つ。
一歩を進む度に足元から舞い上がる花びらの中を抜けて、急激に薄暗くなる重たい石の扉を開き、閉ざすと、そのまま扉に背を預けて寄りかかり待った。
扉の向こうの人の熱気もむせかえるような花の匂いも、分厚い壁の向こうで隠れて薄れる。ほんの少しの待つ間で独り思い出してみるのは、あの視線。ゆっくりと音も無く開いた背後の扉から、僅かに足元を照らす光が細く射し込んだ瞬間にカミュは躊躇う事なく両腕を伸ばして、抱き寄せる。
薄暗闇で見た光で、視界が眩しさにちらついても、嬉しそうに細められた漆黒の瞳だけは逃さなかった。髪を掠めて、顔のすぐ傍につかれた手のひらが、壁を叩く。襟元を鷲掴みにして引き寄せた指が、微かな衣擦れの音を鳴らす。
「っ……」
腰に廻された腕に強く引き寄せられて、重ねた唇から声が漏れる。
目は口ほどにものを言うからとどこかで知った言葉を反芻しながら、カミュがゆっくりと舌先を追いつつ目を開けると、ぬらりと光る艶色が、そこにあった。
それは、秘かに隠れてする悪戯。静かに、人の目を避け、熱く。
二種類の酒精が蕩けて混ざりあってから、離れた唇が紡いだのは嘘。
「……こんな事をしてばれたらどうするのだ?」
「お前が欲に忠実だというのが、皆に知れるだけだろう?」
「…そうか。やはり貴方は酷い人だな」
薄暗闇で光る瞳は、口ほどにものを言うから。