黄金「眠れない」の貴鬼話に加筆した2020年03月27日、03月30日、04月01日牡羊座誕
貴鬼→ムウ→シオン
weep (泣く、泣き喚く、悲しい)
白羊宮居住区の一角、ムウが眠る寝室の向かい側には、愛弟子貴鬼の部屋がある。貴鬼の師であるムウが聖域に来たての幼い頃、そこはムウの部屋だった。
昼の間はしこたま鍛錬で絞られて、夕方には牡羊座を継ぐために不可欠な聖衣修復の技術を学んだ。今日はすぐにでも眠れると貴鬼は思っていた。
でも風呂に入り、ムウに挨拶をして、ベッドにもぐりこんでから一時間。貴鬼はどうにも冴えてしまう瞳を無理やり閉じたまま、ころりとシーツの上で寝返りをうつ。
明日も早朝から鍛錬が待っていて、早く眠らなければならないのに、そう思えば思うほど、眠気はさっぱりどこかへテレポートしてしまって、気持ちのいい眠りの中には飛び込めなかった。
―――早く寝ないと
そう思えば思うほど、貴鬼は今思い出さなくてもいいことばかりがぼんやりと頭に浮かんで、そのことについて考えてしまう。
例えば、修復に必要な血液の量だとか、それを上手に手に入れる方法だとか、はたまたこの間はじめて食べさせてもらったドーナツのことや、それを作ってくれた人物が顔に似合わず料理がうまい謎だとか。
(……蟹のオジサンっていうとなんで怒るだろうデスマスクの奴。へんなの。オイラからしたらオジサンなのにさぁ。ムウ様と三歳しか違わないなんて絶対嘘だよ)
「でもオイラ、ドーナツ好きだなあ」
一人でベッドへ潜りこんでいるのに、貴鬼は思わず口から飛び出してきた声に驚いてパチリと瞳を開けてしまった。
飛び込んでくる部屋の中の暗闇よりも、怖いなと思うのは眠れないということ。でも、それよりももっと怖いと思うのは、明日の朝起きることができなくてムウに怒られることだ。
正直なところ、穏やかな笑みを絶やすことなくふつふつとわき上がる怒りを「笑顔の中の笑っていない瞳」に映して表現する師匠の怒り方は、聖域の中の誰よりも怖いと貴鬼は思っている。そんなムウの怒りの微笑みを思い浮かべただけで、貴鬼は温かで気持ちの良いベッドの中でぶるりと身震いをした。
強くて優しい師のことは大好きで、とても尊敬しているけれども。
(このままだとムウ様に叱られちまうよ……ああ、どうしよう、どうしよう)
もう一度、きゅっと瞳を瞑りながら、貴鬼はまたころりと態勢を変える。ごくたまに、一緒に昼寝をすることはあったけれど、師であるムウに「眠れないから一緒に寝てください」などと言うのはなんとなく気が引けてしまうから、貴鬼は必死に眠るための方法を思いだすことにした。
ぽふん、と埋もれたシーツの柔らかさに、瞼の裏のムウの微笑みが重なる。
(……ムウ様に、ムウ様に……ムウ様…あっ)
そして、貴鬼は思い出す。
いつだったのかは忘れてしまったが、その方法を教えてくれたのはムウの師であるシオンだった。
貴鬼は、もう一度しっかりと柔らかな毛足のブランケットに埋もれ、真っ暗な瞼の裏の、師の顔の隣にあの動物を並べた。
(……よし、えーと…ひ、ひつじが一匹…ひつじが二匹…)
こんな眠れない時にこそ数えなければならないあの動物が貴鬼にとっては身近すぎて、教えてもらった時にはどうにも妙な気分になった。
(ひつじが三匹…ひつじが四匹…なんで眠れないとひつじなのかなあ……ひつじが五匹…)
貴鬼は、牡羊座の黄金聖闘士になるため聖域にいる。
(ひつじが二十一…ひつじが、にじゅうい…ん?…十一…ひつじが十二…)
だから師匠は、牡羊座のムウだ。
(ひつじが十三…ひつじが十四…)
ムウは牡羊座で、ムウの師匠であるシオンも牡羊座なのだ。
ムウの事もシオンの事も、貴鬼は大好きだから、牡羊座の守護に生まれたことを誇りに思っている。
ムウから教えてもらった長い長い聖域の歴史の中でも、女神と世界が危機にさらされた時には牡羊座の聖闘士が第一番目の宮を守ったのだ。
想像もつかないほど昔から、ずっとずっとムウよりもシオンよりも前の牡羊座の聖闘士が。
(ひつじが……ひつじが、…今の牡羊座はムウ様で、その前がシオン様で、っていうことはオイラはひつじでいうと三匹目なのかなあ……ひつじが四匹…)
貴鬼は絶対にムウの後を継ぎ、牡羊座の黄金聖闘士になると心に誓っている。その為には、眠いと言って鍛錬を怠るようなことがあってはならないのだ。
(シオン様が一匹目…ムウ様が二匹目…オイラが三匹目…?でも、シオン様にもお師匠がいたって言ってたし…ってことはきっとシオン様のお師匠のお師匠もいて、さらにまた師匠の牡羊座の黄金聖闘士もいて…そうするとオイラは……)
(もう、どうにも眠れない)
「……ムウ様ぁ!オイラは何匹目!?何匹目のひつじですか!?!?」
「知りません。早く寝ないとシオンのような牡羊座になりますよ」
と、眠れずに右往左往する弟子をたしなめたものの、ムウは確かに何匹目なのだろうと気になってしまった。それだけではない。貴鬼は素直に部屋に戻り、一時騒がしくなった夜の白羊宮には、静寂が満ちている。弟子からの、年相応の可愛げのある質問だと思っていたものが、静けさに背中を押されてむくむくと、可愛くもない疑問に育ってしまう。牡羊座の先代がシオンであることは嫌でも知っているし、後代は間違いもなく貴鬼だ。本人へ直接告げることはこれからもないけれども、牡羊座の貴鬼は、これからの確実な未来のことだ。「羊の一匹目がシオン」ではないとすると、確かに自分が何匹目であるのかには興味をそそられる。そもそも、なぜ眠れない時に数えるのは羊なのか。羊でなく、牛が一頭では駄目なのか、睡眠を引き寄せる要素や媒介として、草を食む獣という条件が必要であるのならば、牛でも山羊でもよいのではないか。睡眠を司る条件としての草食であれば、睡眠と草食動物の関連性とはなんなのだろうかと、疑問はどんどん背丈を伸ばし、縦にも横にも肥えていく。今抱いている「羊」への謎に対して、語り合うにふさわしい師は不在だ。ムウはふと、五老峰に入り浸りすぎてけなげな若者達に迷惑をかけているシオンには、戻ってきたら釘をさしておこうと思う。今すぐに謎を投げかけて、それなりの返答がありそうな者の顔を思い浮かべながら、ムウは小宇宙を探った。アルデバランはすでに穏やかな眠りについていて、不躾な質問で起こしたくはない。双児宮の主は二人揃って不在だった。そうなると、次はニヤニヤと頭の中でいやらしく笑っている男しかいない。想像の通りに巨蟹宮では、活発に息をする気配がする。
「ということで、私の疑問に答えられるのはお前ぐらいしかいないと思いました。そういう明日の役にも立たないような知識は持っているだろう」
「えー。いきなり夜中に来ておいてその言い草はねぇだろ。馬鹿にしてんの」
ムウは巨蟹宮へ押し入って、どうせ酒でも飲んでいたのだろう主と対峙をした。
「馬鹿になどしていません。この聖域で今現在私が抱えている謎を解く可能性を持っているのは貴方ぐらいだと思ったのですよ。デスマスク。褒めています」
「全然褒められてる気がしねぇけども、まあ暇してたからこの知識豊富なオレ様が悩める子羊ムウちゃんに教えてやろう」
「殴りますよ」
「いやん、ムリ。……いいか。眠れない時に羊を数えるのは、眠りのsleepが羊のsheepと綴りも発音も似ているからだ。以上」
得意気に、気取った物言いの答えは、想像していたよりも単純であっけなかった。眠りにおける媒介としての定義は。草食動物の関係性は。
「は?……馬鹿にしているんですか?」
「してねえよ。なんでだよ。本当にそうなんだから仕方ねえだろ」
「そんな……そんな簡単な理由で羊を持ち出さないでほしい。睡眠との関係が綴りや発音だけなら、deepだってkeepだっていいじゃないですか。睡眠をより深め、質のよい眠り得るという意味ではむしろ深いや保つという意味合いのほうがよろしい」
「めんどくせぇな~オレに言うなオレに。知るかそんなもん」
「貴方にはcheap(安っぽい)のほうがお似合いですが」
「おお、言ってくれるじゃねぇの。確かにムウちゃんはsheepだけど師匠の前でのcreep(這う)も良かったわよ」
「くだらない。もうわかりました。謎は解けたのでもういいです。ありがとうございました」
「あらやだ~ムウちゃんからの感謝なんてレア中のレア激レアじゃない?」
「うるさい。とっとと寝なさい」
いとも簡単に謎は解けたものの、あっさりしすぎていたが故に、ムウは釈然としなかった。あれだけ興味をそそられたというのに。そんな心持ちを機敏に察したのか、デスマスクがさらに面白そうに笑みを深めるのが見えた。
「お前もそういう可愛いことを考えるんだな」
「……うるさいと言ったはずですけど」
「もうweepじゃないただのsheepでなによりだ。おやすみムウちゃん」
闇の中で軽やかに鮮やかに飛んできた投げキスとウィンクを叩き落すと、デスマスクは声をたてて笑った。
「あ、そういえばどこかの国では一日中、延々とラジオで羊を数える放送を流しているところがあるらしい。一匹目からずっと数えるんだが、一万匹目を過ぎて一万一匹目になると思いきや、突然女の声で、まだ寝ていないのか?と怒鳴られるという……その後に何が起きるか、信じるか信じないかはアンタ次第」
肩を揺らしながら踵を返した背に向かって、ムウは感謝を込めて口を開いた。
「それでは一つ、私もお礼に伝えますね。聖衣を修復するのに血液が必要なのはご存じでしょうが、何故血液が必要になるかというと、細胞の修復をおこなっているからなのです。人体から失われた血液には輸血が必要なように、聖衣にも血液を与えなければ破損個所が元通りにはならないのです。そう、オリハルコン、ガマニオン、銀星砂はいわば皮膚や骨と同じもの。折れた骨を繋ぎ、裂けた皮膚を継ぎ足したとしても組織の一部とするには、体内に取り込まなければなりません。だから聖衣の成分は全ての生物と変わらぬ遺伝子に支配されたタンパク質の塊……」
「冗談だろ」
心の中でのみ、嘘ですけどと返事をする。
「冗談と思うなら思っていればいいのです。信じるも信じないも蟹座次第ですよ。デスマスク」
困惑するような「だからキャシーちゃんが」などというわけのわからぬデスマスクの独り言を耳にして、ムウは緩んでいく頬をしたがえるまま階段を降りた。何匹目の羊なのかについては、シオンに釘を刺すついでにでも聞けばいいと思う。白羊宮へ戻ったら、気持ちよく眠ることができそうだった。
「老師と遊びたい気持ちもわかります。聖域では暇を持て余しているのも嫌というほど理解しております。ですが、五老峰で生活をしているのは老師だけではありません」
童虎を訪ねて数日ばかり外出をし、聖域へ戻ってきたシオンは、白羊宮へ辿りつくなりムウから呼び止められた。予定では三日と伝えていたのだが、四日ほど滞在が伸びたのは不可抗力なのだ。童虎と遊び、鍛錬をするのは楽しいうえに、五老峰は水も空気も澄んでいるので飯がうまい。それに五老峰を寝床とする若人達の素直さと不器用さが溶け込んでいるような飾り気のない山々の景色は美しく、いつまで眺めていても飽きないものだ。
ムウとて五老峰へ赴いたことがある癖にと心の中で反論を述べながら、シオンはぶつぶつと続く小言を聞き流す。
「若者にとって心安らげるはずの場が貴方が滞在することによって、」
「そんなことはわかっている。だから、私も色々と手伝いをしている」
「それが余計な負荷になることもあります。使い慣れた場所に他人が入り込んでくるのはストレスだと聞いたことが」
「ムウよ。あくまでもそれはお前が聞いただけのことだろう。実際のところ娘がそう感じているというのはわからんではないか。とても愛らしく心根の優しい子供であるし」
「春麗が素晴らしい娘であるのは承知しております。だからこそ、彼女の負担を増やすのが私は心苦しい。紫龍にも申し訳がない」
「わかった。わかった。もうわかったから童虎と遊ぶのは聖域にする」
教皇だろうと言いかけたムウは、わざとらしく口をつぐみ、変わりに深々と溜息を吐いた。
何を言っても無駄だという悟りなのか諦めなのか、シオンはその両方だと思う。諦めの悟りの矛先が、己だということは十分にわかっていても、痛くも痒くもない。
「もういいか?私は貴鬼と遊ばなければならぬ」
「貴鬼はアイオリアと鍛錬中です。それよりも一つ、師シオンに伺いたいことがあるのですが」
「ほう。珍しいこともあるものだな。なんだ。今日の晩飯は魚がよい」
「食事の話ではありません」
「違うのか」
「違います。羊の話です」
「羊……?」
飯の話でもなく、今後の聖域についての話でもなく、ムウは羊の話だという。
「羊……羊といえば我らが星である。牡羊座の話となると何か修復でお前の手に負えないものがでたか?この私のすべてを受け継いでいるお前に直すことのできないものがこの私に直せると思うか」
「自信満々でそうおっしゃられても困るのですが……遠回りで褒めてくださったことは嬉しいと思います。ですがそんな大事の話ではなく……」
シオンは、おやと思ってムウを見つめた。釘を刺してきた時とはまるで違う、歯切れが悪いような、口にするのを躊躇うようなその様子は酷く珍しい。幼い頃にはちょくちょく顔を出していたものの、聖衣を手にしてからは一度も見せようとしなかった姿だ。シオンはわずかに胸が高鳴った。頼られて嫌な気分になる師などはいない。愛弟子はいつでも可愛い。
「では、どうした」
「私は羊の何匹目なのですか」
「……なんだと?」
一瞬どころかしばし考えても意味を理解できず、シオンは聞き返した。
「眠れない夜に、貴鬼が羊を数えていたらふと疑問に思ったとのことです。私は今まで考えもしませんでしたが、言われてみれば私は何匹目の羊なのかと」
「……子供とはそんなことを考えるのだな」
「そうなのです。ただ、貴鬼はもうすっかり自分が何匹目なのかという疑問については忘れて、気にしていないようなのですが、私は気になっております。夜も眠れません」
「羊でも数えたらどうだ?ムウよ。数え時だろう」
「数えていますが、一万匹目を数えても眠れなかったらどうしようと考えるとなおのこと眠りが覚めていく……というのは冗談ですが。単純に貴方が一匹目の羊ではないだろうと思うのです」
子供はそんなことを考えると告げた時、ムウは貴鬼のことを話したが、シオンにとっての子供とは、目の前の穏やかな表情をしている羊のことだった。時として大人が想像もつかないことを考えて悩み、疑問を投げかける。例え返答に困る事柄であっても、新しい一面を知らされたような気分になるのは、どれだけの時が経っても悪くはないなと思う。肉体的に比べたら、今は弟子のほうが年上であったとしても。
「ふむ。まあ私が一匹目ではないのは確かだな。だが、私以前に何匹いたのかは知らん。何百、何千、何万だったかもしれぬ」
「何万……」
それでは調べようがないと独りごちる声を聞き、シオンは苦笑した。
「調べる気だったのか」
「面白そうではありませんか。歴代の牡羊座で誰が一番強かったとか」
「そんなもの私に決まっているだろうが。強く若く美しい牡羊座は私だ」
「若く美しいに興味はありませんが、強いという称号は例え師であろうとも譲りません。強いのは私ですからね」
そこは弟子にさえ譲らないのか、とシオンは思うものの、結局のところ自分もムウに譲る気などないので、師としてのムウも立派に成長したのだと実感する。
「何匹目でもよいではないか。百匹いようがなんだろうが私の次がお前で、お前の次の羊が貴鬼であるという事実は変わらん。それで良かったと思っているぞ。我が弟子よ」
そう告げたら、次はどんな新しい一面を見せてくれるのか。シオンはムウの言葉を心待ちにした。
「……我が師、シオン。たまには私と羊を数える遊びをしていただきたいのですが、いかがでしょう?」
「それは面白そうだ。貴鬼の邪魔をしに行こうと思っていたが気が変わった。昼寝にはもってこいの陽気だ」
何匹目の羊で眠りに落ちるかと想像して、シオンはすぐに考えを改める。穏やかな安寧の寝床に、羊は三匹までしかもぐりこめない。