酔いが廻って、揺れているのは
朝日が昇ろうとする直前の最後の星の瞬きは、楽しい時間の終わりを告げて、消え行く間際の些細な抵抗であるかのように、空気を冷たく尖らせて刺す。
衣服に覆われていない晒された手の甲も指先も、金色の柔らかな髪が当って柔らかいのかこそばゆいのかもう分からない頬にも、それはひしひしと刺さるけれども。
ぐらりと廻る視界はいまだに心地よく弾む。
「……い!カミュ!着いたぞ」
と、ぼんやり遠くの方で友の声が聞えて、握られていた手首を離されて、離れていく人肌があったような気もする。
そう、思いながらカミュは、ぐ、と力を込めて扉を開いた。
人の気配のしない薄暗いリビングをゆらゆらと通り抜けて、大丈夫、とうつつに呟いた口から吐き出される息が白くなるほどに室温は下がっている中を、迷わずとある部屋まで突き進む。手探りで壁を伝って、でも足は止まらずに、感じる一つの静かな気配を頼りに。
(……さむい)
滅多に着ない襟元の大きく開いたシャツは、冷たい空気をするりと隙間から入り込ませて体温を奪い、滅多に晒されない露わにされた額も、やたらと空気の冷たさを強調させて身体に伝えているような気さえ起こる。極寒のシベリアで、極寒に耐え抜いた身体にすら、寒いという感覚を与えてしまうほどに、晒された額の効果は絶大なのか。これはぜひとも寒い場所に行く時には、額を晒すのではないぞと、弟子に忠告をしてやらねばならないな、とカミュは密かに思って、そのままふわんと頭に浮かんだ弟子達を想って、微笑んだ。
つい数時間前まで、身体を巡るアルコールと気持ちの良い音楽で駆け巡る熱があった筈なのに、でも、とにもかくにも今はさむい。さむいから。
カチャリ、と目指した部屋の扉をそっと開くと、眠る前に読書でもしていたのだろうか、ベッドサイドに置かれている白熱灯が灯されたままであった。中にある温かな気配を目指してカミュはこっそりと忍び込む。ばれないように、足音を立てないように、寝ている彼を起こさないように、と思う心は無意識にカミュの小宇宙を閉ざさせ、一歩、また一歩と近づいて行くのに、彼が起きる気配は無い。きっと起きてしまったところで、寝ぼけた眼でそれでも薄く笑って、仕方が無いとベッドの中にもぐり込ませてはくれるだろうが。
すう、と静かな寝息の音と、薄暗闇の中で淡い飴色の光に包まれるだけのベッドまで辿りつくと、カミュはそっと手を伸ばして温かさを求め柔らかな毛布を捲り上げる。いつもは規律正しく伸ばされている背中をくるりと丸めて眠る姿に自然と頬が緩んで、温かさの気配が満ち溢れていて、カミュは着ているものもそのままに、さっさと靴を脱ぎ捨て、そっと毛布の中に身体を滑り込ませる。さむいさむいと感じる額を背中にぴたりと寄せ、たっぷりと人肌の香りを堪能すると、背後から横を向く身体に腕を回した。手探りで着ている少し厚手の寝間着の裾を辿って、冷えた指先に温かさを感じようとそのまま手を入れ、直に引き締められた肌に触れる。触れた瞬間に、反射の様にビクリと身体は揺れるが、そのまますうと静かな寝息は続いた。
毛布と、先に眠る身体にすっぽりと頭まで潜り込んでしまうように、カミュはもぞもぞと一番馴染む位置を探して動き、すぐに丸められた背中の肩甲骨の間に顔を埋め込んで、ぴたりと止まる。
毛布から頭の先だけを飛び出させて、じんと染み込んでいく熱と、香りと、心地の良い気配を全身で堪能して、ゆっくりと上下をする抱き締めた身体に合わせて呼吸をすると、まどろみはすぐに降りてきて、あっという間に眠りの縁に弾んで落ちた。
すうすう、と静かな寝息が二つ重なって、ぼんやりと外の気配に陽が混ざり込み始め、星の光は抵抗も虚しく薄くなり、地平の線から空の濃紺が白んできた頃。
普段は余り見ない夢を見て、もそりと寝返りを打ったシュラの腕が、温かさにつられて求める為に引き寄せた。
夢を見る浅い眠りの中で、慣れた人肌と鼻先を霞めた香りと髪の感触に、ぐぐ、と寝ているシュラの額に皺が寄り、顔がしかめられる。「む」とも「ん」ともとれるような呻きを小さく上げた後に、力が込められた柳眉がふと弛んで、そのまま虚ろな漆黒の瞳が開いていく。
かといって、身体が動かされるわけでもなく、何処か一点をじっと見ている。
(酒……の匂いがする)
寝呆けた身体の感覚は、腕の中に収めたものを見ようともさせず、慣れた香りに混ざったアルコールの匂いが、一体どこからしているのかを探らせた。
シュラは視線だけを、チラリチラリと動かしはじめるが、飴色の光の向こうの薄暗闇を見つめる一点が変わるだけで、結局視界には何も映らない。
でも、この、腹辺りにある手のひらの感触と、全体的な温かさ。それから、香りと、鼓動は何処に、と求めて、ふと息を吐いた。静かに溶けた呼吸と共に、肩の力が抜けていく。
「ぅ……」
廻した腕に、僅かな重みがかかって、抱き寄せられているカミュの唇から微かに漏れた吐息は、操り糸でも括りつけていたのか、という様子でシュラの視線を引っ張る。
「……ん?」
そうして見た腕の中。
すうすうと、穏やかに眠る居ないはずの姿を目の当たりにして、やっとシュラの身体は完全な覚醒を求めて、ビクリと跳ねた。
「…カミュ?」
名を呼んだ瞬間に、起きてしまうか、とシュラはすぐに躊躇ったが、呼ぼうと意識もせずに口をついて出た声は、小さく吐息にも似たものだった。
(なんで、いる)
そっと身体に廻した腕を外して、半分自分と柔らかなベッドに埋もれる姿をまじまじと確認するが、間違える筈もなく、カミュ以外の何者でもない。
珍しくめかして、後方に撫で付けられた髪と、体温で淡く色づく黒シャツの隙間の首筋が、やけに目に入るのと、仄かに香る酒の匂いを纏う以外は、何者でもないカミュその人だった。
確か、今日は、と数時間前に交わした言葉を思いだそうとしても、とにもかくにも頭に浮かんでくるのは、とりあえずは別々の時間を過ごす、という大まかなことだけで、でも、その大まかな内容こそが全てであったはず。
今日の夜は一人で過ごす、一人で眠りにつく、そして、一人で眠りについた、はずだったのに。
これこそまさに、見ていた夢の続きなのかもしれない、とシュラは自問自答をしながら、腕の中に視線を戻した。
そこでしっかりと見開かれて、じっと無言で見上げる赤い視線と目が合う。
更に会うはずもない視線とぶつかって、シュラは思わず目を見開いた。
「……起きたのか」
やけに潤んで見える瞳を見つめて、自然と言葉は口から零れてくる。
目が覚めた瞬間に、腕の中に別の体温が在る、というのは確かに目覚めが悪いものではないが、予期せぬ状況で直後から真剣に見つめられると、それ以上なんと声を掛けてよいのやらと内心悩む。
これは今だかつて、シュラは体験をしたことはないが、朝起きてみたらベッドに知らない男がいた、というよくある行きずりの恋がテーマの映画や小説にある感情に極めて近い状況と心境であるのだろうか。
何か言葉を発してくれたら良いのに、と思ってもカミュは問いかけにも答えずに、じっと見上げてくるだけだった。
いつもと髪型も服装も違う所為であるのか、向けられている視線が酷く落ちつかない。
ベッドの中で二人で見詰め合う瞬間と言えば、基本的には一日の終わりの眠りにつこうとする直前だとか、これからの始まりの朝にだとか、時たまそのまま雰囲気に飲まれた場合には色が変わるが、基本的には穏やかな視線とともにある事が多いのに。
今感じるカミュの視線は、どれとも違う。
カミュの無言は、何かを期待でもしているような、視線はどこか、楽しい悪戯でも企んでいる幼子のような、でも裏側では酷く危うい艶を潜ませている、そんな複雑な色を含んでいた。
たった一言、ああ、とでも、目覚めの挨拶でも声を発っしてくれさえすれば、声音で何処となく感情の予測がつくのに、言葉は聞えてこない。名前を呼ぶだけでも構わないのに、とまたシュラも無言でカミュを見詰め返すと、ふわりと、頬が緩んで、蕩ける。
秒速再生の中で平らな湖面に雫が一つ落ちて、出来上がる波紋の起こりまでが見て取れる、そんな感覚にシュラは一瞬、囚われた。
「シュラ…」
名を呼ばれ、首筋に腕を伸ばされ、触れられた、と思う間に、吸い込まれるように、赤い瞳をそのまま覗くと、柔らかな笑顔の中にも一箇所、艶に妖しく輝いたものが確かにある。
確かにあると気付いた時にはすでに、シュラの唇は、寝間着の首元を強く引かれて、薄く開いたカミュの温かな唇に捕らわれていた。
「ン、」
互いに瞳を伏せることすらも忘れる口付けは一度、唇を濡らすように軽く触れるだけのものだったが、触れた瞬間に反動で後ろに逃げたシュラを、髪に差し込んだ手のひらで押さえたカミュが引き寄せて、再び重なる。ふ、と吐き出した呼吸に混じった酒の香りが、ひしひしとこれは夢ではないと告げてくる。
啄ばまれた唇の先を伝ってくる、柔らかな感触の中に、確かにある熱。
心を穏やかにするものでも、慰める為でも、労わる為でもない、熱は、繰り返し触れられる度に色濃く、形を露わにさせる。
「ん、ンン、……」
うっとりと瞳を閉じて、縋るように唇を追い詰めるカミュは、次第にシュラの身体を覆いつくすように、圧し掛かった。
カミュの唇を受け止めながら、ごろりと仰向けにされたシュラの視界に、真上から落ちてくる赤色と、煌々と照らす白熱灯の光が差し込んで、眩ませる。
「待て、」
降り注ぐ眩しさと光の熱と、柔らかな熱に眩みながら、シュラは目を細めて、牽制の意を込めて名前を呼ぶが、そんなシュラを弄ぶように、唇は落ち続けて止みはせず、せめても、と手探りで灯りを落とそうと伸ばした腕は、容易く遮られた。
手首を掴んだ手のひらは酷く高い体温で、逃げることを許さない、と言わないばかりにシュラの腕をシーツに縫い止める。
「まぶしい」
頭上からの光に耐え切れなくなって、顔を背けたシュラの露わになった首筋を、カミュは唇で辿り始める。やっと解放された唇で、やっと吐き出した言葉が途切れて、微かな呻きが混ざった。
「貴方の顔が見えなくなる」
背けた顎先を啄ばんで、シュラの言葉に反応をしたカミュが、ふと視線を上げて止まる。
覗き込むように覆いかぶさられて、腕をシーツに押し付けられて、眩しい、などと口にするのもまるで良くある映画のシーンだ、と頭の片隅で思いながら、シュラは、楽しそうに撓んだカミュの、いつもよりも確実に潤んで赤味を増した瞳を見つめて溜息をついた。
「…酔っているな」
「さむい」
問うた言葉に、全く噛みあわない返事をしてくるあたりが、しっかり酔いが廻っている証拠だ、と更に吐いた息に、呆れを混ぜ込もうとしたシュラの唇がまた、チュ、という微かなリップ音で飲み込まれる。
「だから、待てと、」
押さえ込まれていない右の腕でカミュの頭を引きはがそうとするも、立て続けに擽るように鼻先と頬に唇を落とされて、シュラの手が怯んで緩む。
「私は、酔ってない」
「どこがだ」
明らかに高い体温に、迫ってくる唇と身体。唇と赤い瞳に見え隠れする、熱い色。
いつもなら、押し倒して、その熱を徐々に解して高めていく最中でも、恥ずかしい、やら、いやだ、と呟いて頬を赤らめる瞬間があるというのに。
そこまで酒には弱くないはず、それがこれほど酔うまでどれほど飲んできたのか、と推測をすれば、おのずと行き当たるのは、知ってはいてもそこまで心を許してきた時間のことだ。
「何を飲まされた?」
整髪料で艶を増す、緩みかかった前髪を更に片手で掻きあげてやりながら、シュラはまた問う。
「うむ……酒?」
そんな事は分かっている。
「誰に飲まされた?」
そんな事も分かってはいる。
「ミロ?」
身体を包む黒いシャツが、カミュのものではない事ぐらいは、分かる。
親しい友を祝うから、と出掛けたことも分かっていて、快くそれを承諾したのは間違いなく自分だ。
「誰に、酔わされた?」
露わな眉の先端に触れてなぞりながら、そのまま流れる髪を撫で、顎先を掬う。
とろりと、溶けた視線はさらに綻んで、じっと黒い瞳を見つめた。
「……貴方に…?」
わざと首を傾げて揺らす、それすらも、酔った酒のうちであるのなら質が悪い、と思いながら、シュラは気付かれないように息を吐いて、カミュに軽く口付けた。
「酔ったままで人のベッドに潜り込んでくるとは恥知らずだな」
「ああ、さむい」
唇を塞いで離しても、カミュはぬくもりに縋るように身体を擦り寄せてくる。
「そんな格好をしているからだ」
「では脱ぐ」
「脱がんでいい。さむいのだろう?」
「脱ぐ。だから貴方も脱いでほしい」
気付けばシュラを押さえつけていた手首は離されて、カミュは起き上がるとシャツのボタンを外しに自らの胸元に這わせて、もそもそとおぼつかなく動かす。
噛み合っているようで、全く噛みあっていない会話と、もそもそとボタンを外している様子が、どことなく言う事を聞かない子供のようで、シュラはその姿を見ながら思わず、苦笑いを溢した。
でも露わに、次第に露わになってくる肌からは、しっとりと色づいた艶が漏れてくる。
「俺は脱がん。…寒いから」
腹の上に跨ったままの姿を見上げつつ、シュラも身体を起こしてカミュに向き合うと、俯く手首を握り、外す指を止めさせた。
え、と顔を上げたカミュの唇に、シュラは静かに口付けを落として、すぐに離れようとした首元を、カミュの手が追って、掴んで、引き寄せた。ゆっくりと唇が触れる寸前に、小さくカミュは囁いて微笑む。
「……さむい」
「ああ、わかってる」
脱げかけの黒いシャツが纏わりつく身体をシュラは腕の中に納めると、ゆっくりと唇を味わう口付けを施す。長い時間をかけて、纏う酒の香りと温かい身体の線を指先に馴染ませていくと、背中に回されたカミュの指がピクリと動く。
唇を離した瞬間に、カミュの唇からは微かな吐息が漏れて、閉じられた瞳が開きかけるが、それを許す事はせずにまた、シュラは薄く唇を開いたままで、口付けをする。
ゆっくりと開かれたカミュの舌先を掬って吸い上げた。
始まりはゆっくりと、次第に、急いて唇を求めようと動いていく身体は、確かに酔っている。
ドクリ、と鳴る鼓動と共に、呼応したように昂ぶっていくのは、間違いなく、身体を巡る血と熱さ。
それを探るような口付けは、息を吐く間も無くなっていくほどに、感情を露わにさせる。
紡ぐ言葉も無くしたカミュの指が、シュラの髪を手繰るように引き寄せると、抱き締めていた腕が伸びてきて、纏められた前髪を下ろそうと、荒く掻き乱した。
薄暗闇の部屋の中で、白熱灯に映し出された二人の影が、白壁に映る。
淡い光に照らされた闇よりも濃い影は、飴色に包まれて形をぼやけさせながら、絡んでまた、揺れた。