2009/02/08発行 コピー本再録
視界を埋め尽くす色は揺れ、赤にも紅にも緋にも見えた。
「……何をそんなに急く」
シュラは、潤み、すでに何度も重ね合わされている目の前にあるそれを、指先でなぞる。
ソファに倒れ込んだあと、腹に跨り、押さえつけるしなやかな両の足が無言の反応をした。
「カミュ」
言葉を無くしたのか、無くしたのは言葉なのかと確かめる為に、再び落ちてこようとした唇を指先で割り、押しとどめる。
もう一度、今度は名前を呼ぶ。しっとりと水分を含む咥内に侵入させようとした指は、それよりも先に滑りを帯びた意思のある体温へ絡め取られた。
「今日は天気が良いらしい」
だから、どこかへ出掛けたいと、カミュは言う。
この聖域の何もかもを破壊しつくした聖戦は終わりを告げ、幾ばくかの月日はあっという間に過ぎる。長い間、只それだけを願い、焦がれて、その為に生まれてきたと言っても過言ではない平らで穏かな日々の最中に。
「何処に行きたい?」
執務も、任務もない春めいた日に確かに宮へ閉じこもっているのもなと、目覚めてから、だらだらと座ったままのソファの上で、シュラは問うた。
「何処へでも。ただ散歩をするだけで構わないのだ」
カミュは、貴方とならば、と続けながら、まるで照れたように視線を反らす。
「それは、俺の力を試しているととらえていいんだな」
「試す?そんなことはない。本当にどこでもよいのだ。私は取り立てて行きたいところも思い浮かばないのだが、出掛けたい気持ちはある」
「何故ならば天気がいいからだ、だろ?」
「うむ」
まさにそれだ、と言わんばかりにこくりと頷く姿に笑んで、シュラはささやかな願いをかなえるべく、知りうる場所を思い浮かべた。
いくら平穏だからといって、長時間隣あった宮を空にするわけにはいかない。
ギリシャの首都から程近い山の麓に、東西に伸びる小さな町がある。
常人でも、大人の足であれば十五分足らずで端から端まで行く事ができてしまう町に、古代遺跡としてのアテナの聖域は実在する。
人の歴史の一端として、人が作り上げたアテナの聖域の隣には、太陽神アポロンの聖域も存在し、かつては人が歌い、演じ、そして喝采の声と拍手に包まれたであろう半円形の劇場や競技場、目には見えない神に祈りを捧げたのであろう祭壇の痕跡が、いまだ色濃く残っている。
ただ「人」として見ることが出来るアテナの聖域も、日々を過ごす聖域と同じように時の風化に曝されて、静かに繁栄の跡を残すだけだ。人の世界も、神に守られた世界でも、時の流れは等しく訪れる。
日々住まう聖域は、神々が君臨していた時代から存在していたとは言え、現在進行形で人の気配があった。だが、人の世界の女神の居場所に流れるものは、かつてと称されるだけの過去の気配だ。雨に打たれ、風になぞられるだけの建造物は、静かに佇んだまま白い大理石を灰や黒に変え、遠い日の姿を思い描かせる。
佇まいはとてもよく似ているのに、人の気配の有無でこんなにも景色は変わって見えるのかと思いながら、二人は訪れたその場所を歩いた。
あてどなく、他愛ない言葉を交わし、目に映ったものをただ、眺める。
「こんなに広い浴場もあったのか…サガが見たら興奮するだろうな」
「シュラ、向こうにはどうやら訓練所のようなものも見えるのだ。アイオリアやアイオロスが喜ぶ」
心地の良い澄んだ風を浴びながら、人の姿のない道を歩く。共に歩く事が目的で、何をするわけでもない。
「向こうにはなにがあるのだろうか。まだ見ぬ景色がそこに」
遠い昔をああだこうだと想像して、戯言を言い合いながら、時間も何も、気にもせず。
歴史ある場所を進むことが気にいったのか、カミュはシュラの先に立って歩いていた。
「何言ってんだお前。はしゃぐのは構わんが足元に気をつけろよ。すぐ転ぶ」
カミュが、子供のようにはしゃぐ姿など今だ見たこともないが、あちらこちらに靡く髪を後ろから眺めているのも、それはそれで、面白いとシュラは思う。つい、からかうような声音になった。大人がはしゃぐ子供をからかうように。
揺らいでいた髪が動きを止め、カミュはちらりと視線をよこす。
「すぐに貴方は子供扱いするのだな。私を」
「俺よりも子供だろ?転んで建造物が壊れたら面倒だ」
「酷いのだ。貴方にとっては建造物のほうが大切なのだな」
「まあ、壊れるからな」
シュラからの揶揄に、カミュはわざとらしく眉を顰めた。なんだ、拗ねているのか。
そう囁きながら、にやりと笑んでやれば、瞳は笑っている癖に、ふいと顔を背けて歩みの速度を上げようとする。だから、シュラはさりげなくその手を掴んで引き寄せ、指を絡めた。滅多にしないことをしようと思うのも、気分が高揚しているからなのだろうと、秘かに内心で自嘲する。
はしゃぐ子供だと、カミュをからかう事なんてできないからだ。
離す気などさらさらない手を、近くまで引き寄せると、カミュは辺りを伺って、小声で囁く。
「……誰かに見られる」
「もしも誰かがいたとしても構わん。この聖域に、俺達の事を知っている者はいないからな」
最後に、手を繋ぐ行為をしたのは、いつのことか。シュラがそう思いながら歩き出す横で、カミュもまた、穏やかに目を細め、歩幅を合わせる。
「こうして手を引くのは貴方が迷子にならないようにだろう?」
「……お前が怖がらないようにだな」
得意気な言葉に、さも心外だと反論すれば、カミュは小さく声を立てて笑った。
歩きやすいよう地面に埋め込まれた石の道なりに歩いていると、歩道からはずれた鬱蒼とした木々と岩の隙間に、カミュは何かを見つけ、立ち止まった。
廃墟も同然の場所であるから、岩などは幾らでもまわりに転がっている。
シュラも、つられてカミュの視線の先を見てみれば、老木の朽ちた木と、枯葉に埋もれてはいるが、明らかに人が建てたものだろう不自然な石の塊に目を奪われた。
「行ってみても良いだろうか?」
「ああ」
カミュはシュラの了承を得て、ゆっくりとその石に近づいて行く。
先導する足元から、カサリと、干からび落ちた葉の音がする。合間に小枝を踏む音も交えながら、二人は石のすぐ前で止まった。
「これは、まるで……」
近づいてみると、やはりその石の建ち方も、風化の仕方も辺りに転がる石とは少し違う。
無造作に転がされているようで、でも、薄く何かの文字が彫られていたような痕跡があった。石と土の境目の部分は落ち葉に埋もれてしまって見えないが、石の下には、なだらかな盛り上がりが見てとれた。一度掘り起こして、また何かを埋めて土を被せたような場所の上に建つ、石。それは何かを残す、碑か、もしくは。
「まるで墓標のようだな」
「一体誰の者なのだろうか。こんな場所に突然ぽつりと」
「文字が崩れて読めないが恐らくこの地に生きた者なのだろう。昔はこの場所も争いの地であったと聞く。歴史の上で大きな戦争が幾つもあったと、昔に教えられたような気がする」
「そうか」
時間の流れの中で崩れ落ち、自然の力で全ては土に返る。
返る場所の、より多くの範囲を求めて人は争い、そこに朽ちる。
遠い昔に、「彼」かも「彼ら」かもしれない者達は確かにこの場所に生きていたとでも言わんばかりに残された、命のあと。石に彫り込まれた文字の、たったいくつかで残った生。
これに良く似た景色の場所を、シュラは良く知っている。
平らで穏やかであるからこそ、少しづつ音もたてずに落ちていく砂時計のように、人の記憶は忘れ去るものだと、シュラは思う。
同じことを想っているのか、さだかではないが、カミュも、神妙な面持ちで食いいるように碑を見つめ、押し黙っていた。
傾いた陽が、輝きに淡い色をのせ、命のあとを映し出す。カミュの横顔を見ているうちに、シュラは何かを紡がねばならないという衝動にかられた。
「俺たちには想像する事しかできないことだ。もしかしたら、この地に住み着いて子孫繁栄と昼寝に勤しんだ支配者かもしれないしな」
「何?」
「……ほら。彼の子孫がそこにいる」
見てみろ、と視線で促した先には、黒と灰色のまだら模様のすらりとした猫がのんびりくつろいでいた。
「ああ、本当だな」
カミュが視線を向けてみると猫も同じように顔を上げて、こちらを見る。青みがかった銀灰色の大きな瞳で不思議そうに。おもむろにカミュが、おいでと手を伸ばすと、さして興味もなさそうに小さく鳴いて、碑の裏側に隠れてしまった。
「振られたな」
「いいのだ。彼に怒られてしまうかもしれないのだ」
そう言う先の碑の上に、猫はいつの間にかよじ登っていた。腰を落ち着けると、ぺろりと顔を洗う。
猫が顔を洗う時には、雨が降る。気付けば、先程まで顔を見せていた太陽が陰っていた。静かに立ち込めるのは、どこかしらじらとした冷たい雨の匂いだ。シュラは、繋いだ手を引き、先へ進むことを促した。
「雨が降るかもしれない。行くか」
カミュが、同意の言葉を返すよりも先に、にゃあともう一度猫が鳴いた。
指の先を余すところなく舌で包み込む水音に、しとしとと窓を叩く、雨の音が混ざる。
猫が予想をした通りに、帰路に着く最中、夕立は容赦なく降りだした。
もう、先にある宝瓶宮まであと僅かのところで、盛大に頭から、嵐を告げるような冷たい雨に濡れた。
あの猫の嫉妬か何かだろうか、と二人で笑い合いながら、ずぶ濡れのまま宝瓶宮の浴室に駆け込んで、温まり、擽るようなキスをした。
その時点で、カミュが欲情をしている素振りはなかった。
でも、シュラはリビングへ戻るなり背後から抱きつかれ、もつれるようにソファへ転がった。
カミュの秘められた色事へ欲求が、以外に強い事を、シュラは良く知っている。
冷静を信念とする強い意志と、だからこそ表面に現れることを意図して拒む感情の内側には、その実燃え上がるような熱がある。その身に宿す力と雰囲気とは裏腹に、髪色と同じ火の色をした燃えさかるもの。
一度その熱が体内を巡ると、カミュは理性の狭間で、抵抗の素振りをみせて、打ち勝てない本能で情熱に溺れた。
頭上から降り注ぐ視線が、情熱だけであるのなら、良かったのかもしれない。
一瞬たりとも反らされることのない、瞳の中が、ただ煩悩のひといろであれば良かった。
肌を重ねれば、それは満たされることだと、シュラは思う。
晴天が心を解放させるなら、どしゃぶりの雨天は、閉ざされた世界を匂わせた。
浴室でかわしたほんの一瞬の温もりが、嘘のように消えていく現実は、幾度見てきた死の瞬間に酷似している。
シュラは頭の片隅で、赴く場所を誤ったかという想いに駆られた。忘れてはならないのは、死を体現しているという事実だ。
当たり前のように、平穏に息をしていることが異質の事実であることを、忘れた。
異質だらけの閉ざされた世界で、知らずと麻痺をした感覚に、シュラは内心で自嘲した。
自分達は、神ではない。人であるのだ。ただ、愚かなる人なのだ。
言葉があるのに、たった一つの動いた感情ですら、うまく伝えることができない。
また、眼前で、カミュは唇を重ねようとする。まるで、体温に縋って、答えを確かめるように。
シュラは、首元を撫でたカミュの赤い毛の先に指を差し込み、手繰るように引き寄せた。
ソファについた片腕で上半身を支え、見上げるように唇を重ね合わせる。
今まで反応をみせなかったシュラが先に動いたことで、カミュは我に返ったように、目を見開いた。緩んだ唇の隙をついて、舌を差し入れると、再び赤い瞳は伏せられていく。
冷えたきった肌に、体温がゆっくりと戻っていくだけの間、シュラは息を継ぎながら、あやすように何度も唇を触れさせた。どちらともなく離れたあと、カミュは、覆い被さったシュラの左の胸へ耳を添えるようにして、密着する。
隙間もなく重なった右胸に伝わる鼓動は、温かい。
シュラは、静かにその背へ腕を廻した。
雨に閉じ込められてから、三度目の名を呼ぼうとした時、ぽつりとカミュが囁く。
「貴方の音が聞こえるのだ」
「……そりゃ生きているからな」
確かに問いたい事があったはずなのに、口を開けばこれだ。シュラはままならない己の口から小さく息を吐いて、廻した腕の力を込めた。その答えをどう思ったのだろう。
カミュは、微かに肩を揺らした。
「私には、残る名がある」
「俺にだってある」
「知っているのだ。シュラという名だ。とてもよく知っている」
「もっと知らしめてやってもいいけどな」
軽口をたたくようにそう言うと、カミュは視線だけで微笑んだ。
「これから何度も、同じ星の元にさえ生まれれば、名など変わっても貴方は私とわかるだろうか」
「わかるだろ。俺は人であろうが犬だろうが山羊だろうが猫だろうが、いつでもお前の隣でつきまとってやろう」
「……シュラ」
「例えばお前の姿でなくなっても、名前も何もかもをなくしても、離れない」
こんな風に、と言いながら、シュラはカミュの身体を強く抱き竦める。
「石に刻まれた名だけになっても、晴れた日にはお前の上で昼寝をして、雨が降ったらお前に隠れて雨宿りをする」
「そうか」
「平穏で、健やかな朝と夜を何度も繰り返す。しつこいぐらいに」
「それはとても素敵なのだ」
シュラは、カミュの声色から生まれた安堵の色を、心地良いものに感じる。
戦うことでしかあらわせなかった感情を声にして、重ねて揺らぎ、また凪いでいくことを繰り返して、異質の上に成り立つ生は、続いていく。
「……待てよ、やっぱりそれだと俺だけ置いていかれているような気がするから、やっぱり、やめた」
「それは猫にはなってくれないということか?」
「猫の方がいいのか」
「いや。……貴方がいいのだ。シュラ」
遠い日を想い、揺らいだこともなにもかも、シュラは無性に心地の良いことに思えた。
ただ平穏な、日々と日常。
例え時の流れに埋もれて忘れ去られても、次は朽ちていくのだろう。次こそ朽ちる。
そう思ったシュラの視界を埋め尽くす色は、赤にも紅にも緋にも見えた。
シュラの見知ったその瞳が、穏やかに揺れて、撓んだ。
次こそ、二人で。