L’etoile de mon ame

遠く、離れていても


申し訳ない。
たった一言を残して、カミュは聖域から任務へ出掛けた。
シュラはその背を見送りながら、もう間もなく訪れる日まで何日あるかを数えて、また少しだけ落胆した。
カミュが赴いた任務は、最低でも一週間はかかるだろうといわれているものだったから、確実に件の日には間に合わないだろう。
こっそり執務をかわってもらっていて、黙っていたことが裏目に出た。
シュラが、どうしてもあけておきたかった一日。それは一年に一度、あと三日でやってくる日だった。
「…どうするか」
もうだいぶ小さくなった背を見つめながら、シュラは独りごちる。そうは思っても、もう本人は出立してしまったのだから仕方がないことだった。
――まあ、いい。
溜息に少しの不満を吐きだして、シュラは自宮へ戻った。
そして72時間が経った朝。
シュラの、執務も予定も、何もない一日は始まる。
本当だったら、確実に二人で過ごしていた筈だったベッドから、あっさりと抜けだして、洗顔、食事と軽い掃除、聖衣の手入れを行ったら、もう何もすることがなくなった。
シュラはリビングのソファにぼんやりと腰を降ろしたまま、手持ち無沙汰に頭をぼりぼりと掻く。
見遣った壁かけの時計は、まだ昼にすらなっていない。執務や任務で追われている時には、次の休暇にやりたいことなど山のように思いつくし、一人ではなく、二人でいたらそれこそ色々な意味でやりたいことなど山のようにあるのに、何一つもおこなうべき事柄が見当たらない。
今日は、二月七日だ。
今日に限って暇を持て余したことなどないのに。
――鍛練でもするか。
じっとソファに座ったまま、もう一度時計を見ても、先程目にしてから三分も経ってはいなかった。
黒い長袖のシャツのボタンを外して脱ぎ捨てると、シュラは上半身裸になってソファから立ち上がった。外で誰かと手合わせをしても良かったが、あからさまに今日を一人で過ごしているというアピールをしたくはなくて、リビングの隅で筋肉トレーニングをする。
まずは、身体中の筋肉を伸ばし、簡単に解してから、壁へ両足をつけて床へ座りこむ。
手初めに腹筋を300回ほど。それから腕立てと、スクワットと、とシュラはトレーニングの内容を組み立てながら、鍛練をはじめた。およそ昼までできっちり消化できる程度。だらだらと汗を掻きながら、シュラは二時間ばかり己の筋肉の向上のために費やした。元々、シュラはこうした黙々とおこなう単独の鍛練が嫌いではない。それが功をそうしたのか、髪から零れ落ちる汗を拭いながらもう一度時計を確認した時、すでに昼を回っていた。
軽く休むかと思いながら、シュラはリビングをあとにして汗塗れになった身体を流しに浴室へと向かった。ざっとシャワーを浴び、火照った肌に服を着たくなくて、腰にタオルを巻いたままキッチンへ行く。
水を一杯と冷蔵庫を開けたところで気が変わって、ビールを開けてラッパ飲みする。唇からこぼれて首を伝い落ちた液体の冷たさすらも心地良く、喉を鳴らして味わう。もう一口。
カミュは、今頃真面目に任務をこなしているかと思うと多少気も引けたが、もう一口。
でも、置いて行ったのが悪いとやっぱり思わなくもなくて、もう一口。
「なんで今日に限っていないんだ」
シュラは、ぼそりと独りごちて、瓶の中身を全て飲み干すと、シンクへ置いた。
どうせ誰もいないんだ、となかば自棄の気持ちもあって、躊躇う事もなく腰に巻いていたタオルをもぎとって濡れた髪を拭く。
美味いものを飲んだら、気分も多少高揚して、いっそ自堕落に過ごしてやろうと思い始める。全裸のまま、リビングには行かず、寝室へ向かうとそのままベッドへ飛び込んだ。汗を流した肌に、シーツの感触はとてもよく馴染む。このまま昼寝をしてもいいかと思って、足元で丸まっていた毛布を掴むとそそくさと潜り込んだ。
全ては、カミュが、置いていくのが悪いのだ。だから、寝る。
――別に不貞腐れているわけじゃない。眠いから寝るんだオレは。
そう言い聞かせながら、シュラはあっさりと真っ昼間から意識を手放した。
はじめは素肌を隠していたものの、眠りが深くなるうちに、シュラはだんだんと毛布を蹴飛ばしてしまう。
白昼堂々の質の良い眠りは余りにも気持ち良くて、もはやほとんどが無防備に、申し訳程度に股間が隠れている状態になった頃、磨羯宮には不意の侵入者が現れた。
恋人の大切な日に置いていかれて不貞寝かと、最高の憐れみを込めてシュラを眺める。
「ちょっと。起きてください。というか、起きなさい。見苦しい」
「……あ?」
見苦しい、という単語の途中で目を覚ましたシュラは、気だるさと、ふいに邪魔をされた心地良さで機嫌も悪く唸った。
目覚めた瞬間から、機嫌のいい性質ではない。膜を張る視界で見上げた先に、ぼんやりと二つの豆が見えるような気がして、シュラは目を細める。目の前にある二つの豆は、ちらちらと左右に揺れている。その動きを眺めながら、揺れる方向へ手を伸ばしてみれば、剥き出しの下半身があった。
ぼりぼりと伸ばしたついでに下腹を掻きながら、シュラはどんどん晴れてくる視界の中で、眠りを妨げた者の輪郭を認識する。
「……なんだ、なんか用か。ムウ」
シュラが名を呼ぶと、ムウは覗きこみながら、もう一度ちらりとどこかへ視線をやって、にっこりと笑った。
「いやですね。いい大人が不貞寝だなんて。貴方に届けものですが、呼んでもでてこないので入りました」
「あー。ああ。別に不貞寝なんてしてない」
シュラは瞼を擦りながら、ゆっくりとベッドから起きあがる。そうして視線を合わせたムウの顔が、いつになくにやにやと笑んでいるような気がして、出そうなあくびをかみ殺した。
「……なんだよ」
「いえ?なんでも?」
なんでもないと言う割に、ムウは含み笑いをやめない。含むものなど見当たらないシュラは、じろりと睨む。
「なにが届いたんだ」
「ああ、コレです」
ムウはまた穏やかさばかりを強調させて笑み、白い封筒をシュラに渡した。宛名も何も書いていないことをいぶかしむ。
「なんでコレがオレ宛だってわかるんだ。名前もなにもない」
「コレがはいっていた荷物が貴方宛になってましたから」
「荷物……?」
そんなものどこにあるんだ。シュラがそう言おうとした時、ふいに鼻につく香りがあった。香ばしい微かな甘さを含んだうまそうな匂い。それは手にした封筒からのような気がして、シュラは思わず匂いを嗅いだ。
「箱で荷物届いたんですけど中身もなにも書いておらず、爆弾でも困るじゃないですか。だから開けました」
「中身はどうした。オレ宛だったんだろう」
「とても美味しそうなパンだったんで食べました。執務にでてた皆で」
「オイイイイイッ!」
あっけらかんと、ムウがごちそうさまでしたなどとのたまうから、シュラは目を向いて問いただす。
「人の荷物あけて、勝手に食ってんじゃねーよ!なにしてんだ」
「私は、まあ貴方の荷物なんで食べるのやめましょうって言ったんですけどね?デスマスクが食えよって嫌がる私に無理矢理……」
ムウは、いたしかたなくと囁きながら心苦しいとでもいうように口元を手のひらで覆う。気付かれないように一瞬ニヤリと笑った。シュラは気付かない。
「……あの野郎…!」
「ホント酷い蟹ですよねぇ。せめてもと思ってその封筒だけでも貴方に届けようと思ったのです。差し出し人書いてなかったですが、任務で訪れたところからの謝礼かなにかなんじゃないですか。よかったですね報復じゃなくて」
思わず握り潰しそうになった封筒を、すんでのところで止まって、シュラはムウを見た。
「確かに届けましたよ」
「あー」
ムウは、うふふ、ともう一度笑う。それから、背を向けて寝室を出て行こうとする。その寸前、ふいにくるりと振り向き、シュラを見つめながら鼻で笑った。
「貴方もそう見えて……たいしたことないですね」
「はあ?」
「いえ、なんでも?フフ……」
薄ら笑いの余韻を残して、扉は静かに閉まった。妨げられた眠りと、終始の含み笑い。預かり知らぬところで食われていたパン。
「クッソ…なんだっていうんだ」
たいしたことがないのはなんだっていうんだ。シュラは、ありありと手元に残るばかりの謎を集約したような封筒を忌々しく思いながら、開けた。
手紙かとおもいきや、手触りがことのほか堅い。取り出してみると、それは一枚のポストカードだった。
メッセージを記すのであろう場所には、なにも書いていない。くるりと返してみれば、裏面には真っ白な紙の中央にたった一本の黒い直線が真横に引かれていた。
「……なんだこれ」
絵でもなく、写真でもなく。白地に黒いただの線。
カードの右下にはサインのような線のような垂直の短い縦線がもう一本。意味がわからない。わからないから、シュラはまたさっさと封筒にカードを戻して、床に投げた。もう一度寝ようと毛布を被る。
なんだかよくわからないのも全てはカミュが、今日いない所為だ。
そう思いながら、シュラは目を閉じる。首元まで毛布を引きあげた時、ふわりとまた封筒についていた匂いがする。良く焼かれたバターの匂いだ。
怠惰に過ごす一日は、本当にあっさりと終わり、過ぎていく。眠りの合間、急いで戻ってきたという言葉と共に、カミュがベッドへ潜り込んでくる想像などもシュラは秘かにしてみたが、いわゆるそれは、妄想で終わった。
昼間から眠りについて、真夜中に目が覚め、シャワーを浴びてからだらだらと夜明けを過ごし、翌日シュラは、あれだけ眠ったというのに執務の間中眠くてしかたがなかった。
カミュは戻らない。
必死にあくびをかみ殺し、執務を終え、シュラが自宮へ戻るために双魚宮を通り過ぎようとした時、ふいにアフロディーテから居住区へ寄れと呼ばれた。
中にはデスマスクの気配もあって、ついでに昨日貪った荷物の中身について締めあげてやろうと思いながら、扉を開ける。
珍しく戸口まで迎えにでていたアフロディーテと目が合う。
執務が終わって、早くソファに転がりたいと思っていたシュラは、抑揚のない声で言った。
「何の用だ」
アフロディーテは、ささいなシュラの苛立ちなど見えてもいないように、ずいっと目の前に白い封筒を差し出してくる。
アフロディーテから手渡されるような手紙の中身に心当たりも何もなく、シュラは封筒と、真っ直ぐに視線を投げかけてくる硝子のような目の玉を交互に見た。
アフロディーテは無言のまま、早く取れと言わんばかりにもう一度封筒を押しつける。
「……なんだよ」
「早くとれよ。オマエにだ」
「はあ?オレはオマエからもらうようなもんなどない」
「はあ?私がオマエに渡すようなものがあるわけないだろう。オマエ宛に届いてたからやる」
半ば手のひらへねじ込むようにして、アフロディーテはシュラへ封筒を握らせると、もう片手に持っていた酒瓶をそのままぐびりと煽った。
ラベルのデザインと、中身の見えないくびれた瓶はワインのようだ。ごくりと喉を鳴らし、音を立てながら瓶を口から離して匂ってくるのは赤ワインの香りだった。瓶に口をつけてから離す一連の動作の間、シュラから視線を離さなかったアフロディーテは、ちゃぽんといくらも残っていない中身を楽しげに揺らすと、にやにやと笑った。
「……うまかったよ」
含み笑いの既視感。白い封筒。自分宛の届けもの。
「なにが」
「え、オマエのワイン。昨日さ、実はもう一箱あったんだよね荷物。パンは皆で食ったんだけどワインは私が、」
「オイッ!だからなんで人の荷物を勝手にオマエらは…!」
「だって差し出し人書いてないからさ。どうせパンと一緒で任務の謝礼だろ?イイ仕事したじゃんオマエ!よくやった。パンもなかなかうまかったぞ」
「知るかバカ!クッソ!オレにもワインよこせ!オレ宛なんだろ!?」
「よくいうじゃん。オマエのものは私のもの、私のものは私のもの」
「言わねえよ!」
どうして、ココの奴らは揃いも揃ってこういうのばかりなのか。シュラは心の底からそう思って、怒声を飛ばす。
「まあまあいいじゃん。ワインの一本や五本」
「五本!?」
「まあもうないけども」
コレ、最後の一本、とアフロディーテはこれ見よがしにシュラの目の前で瓶の底にあった液体を飲みほした。
うまそうに蠢く喉も、勝手に荷物を奪われたことも全てが腹立たしさを通り越して、シュラは全力で扉を閉めた。
双魚宮の扉は、今にも粉々に砕け散りそうな盛大で不快な音を立てるのに、びくともしない。しないどころか閉じた扉の向こうから、それは楽しそうな笑い声が二人分聞こえ、シュラは奥歯を噛み締めて地団駄を踏みそうになる両足を堪えた。
落ち着け。オレは大人だ。落ち着け。
ふう、と大きく深呼吸をする。さっさと居心地のいい自宮のソファに転がりたい気分を懸命に抱え込んで、シュラは双魚宮を立ち去った。
あとで見ていろと、心の中で吐き捨てた言葉は、手の中にある紙の感触が全て吸いこむ。
シュラは白い封筒を見る。でも、もう双魚宮で立ち止りたくはなくて、磨羯宮に戻ってから中を見た。
差し出し人は空白の、薄らと雪に覆われた美しい山の風景だった。修行地の山の景色を知っているシュラには、どことなくピレネーの山脈のようにも思えたが、場所を示すような言葉はどこにも書いていないから、定かではない。
そして、右端には明確に「e」の一文字があった。この風景を写した人間のサインなのか、場所のヒントなのか。どちらにしろそれでも意味はわからない。
シュラは溜息を吐く。
恐らく考えることは山のようにある。でも、眠さと苛立ちで、あまり多くのことを考えたくはない。それでも、パンやワインの謝礼を貰えるような任務をこなしたか、と思いだしながら封筒を居住区のローテーブルへ投げた。
それから、数日の間は、特に何も起こらなかった。
カミュが任務へと発ってから一週間と三日。
経過はしたが、戻ってくる気配はない。
もしかしたらという願いをひそやかに込めて、シュラはまた、執務のない一日に予定をいれずあけておいたが、朝目覚めた瞬間から、まるまる一日暇な匂いがした。
あの日の既視感は再来するか。
そう思いながら、シュラは昼にもなっていない時計を見て、徐にソファから立ち上がった。鍛練をするためではない。寝室のベッドの下に潜り込んでいた封筒を探し出し、再びソファへ腰を降ろした。
中身を取り出して、並べる。
脈絡もない無記名な二枚のポストカードをしばし眺めた。
改めて気付くのは、初めに届いたポストカードの右端の縦線は、線ではなく「l」の文字ではないかということだ。
―――だから、なんだ。どうしたっていうんだ。
「l」と「e」の文字が二つあったところで、言葉ではなく、ものの名前でもない。
先週から口癖のようになっている一言を知らずに呟こうとしていたことに気付いて、シュラは踏みとどまる。言葉にしてしまったら余計に虚しくなるだけだ。試されてでもいるかのようなこの出来事に負けているような気がする。
無言のまま、シュラは背もたれに首を預け、寄り掛かる。
天井を見上げていたら自然に目が閉じ、瞼の裏へ交互に単語の二文字を思い浮かべていた。
内心で呪文のように反芻する。
だんだんと明滅し始める「l」と「e」に続く文字はなにがあるのか。暗闇でぐるぐると回転する形につられるまま、思考もゆっくりと回りだす。
ぐるりぐるりと答えの見えない螺旋は次々に意識を埋めつくして、シュラは気付けばうとうとと眠りこけていた。
首裏のカーブと、ソファの背もたれの曲線が見事にすっぽりとはまって、心地良さが倍増する。
寝息をたてはじめたシュラの唇は、そのうちおのずと薄く開いた。すうすうと無防備に漏れる息。警戒心は、人一倍強いはずなのに、シュラは自分でも気付かないうちに眠りに落ちた。
唇からもれだす穏やかな休暇を絵にかいたような幸福はだがしかし、滅多に磨羯宮に現れることのない珍客により、無残に破壊される。
気配にすら気付かないシュラの寝顔と、片手に持った封筒を交互に眺め、もう片手でむさぼり食べていた菓子の最後の一口をほおりこんでしまってから、珍客は、シュラの開かれていた唇に容赦なく人差指をずぶりと突っ込んだ。
その瞬間、シュラはカッと目を見開いて「ゲェホッ!!グッ…フ!!…ゴホッ!」と、咳込みながら飛び上がった。指先に直撃された弱い粘膜が、息も絶え絶えに苦しみで蠕動したからだ。
シュラはみるみるうちに、息苦しさと痙攣で滲んでくる生理的な涙をこらえながら、最も腹だたしい起こし方をした珍客を睨んだ。
「テメッ…ゲフッ…なんつーおこしかた…して、んだ…」
「見事な虚無がそこにあったので、つい触れたくなったのだ」
答える合い間、もごもごと口の中にあるものを咀嚼しながら、シャカは、平然と苦しさにもだえるシュラを見下ろした。
閉ざされたままの眼差しと張りついた無表情が、ただのすっとぼけたような顔にしか見えなくなって、シュラの怒れる感情は、度を通り越して急速にしぼんでいく。その代わりに、重い溜息が無意識にでた。
「ついってオマエ…つーか何食ってんだ」
「うむ、マカ……?マカ……フシギ?というようなものなのだよ」
シャカはこくりと喉を鳴らして口の中のものを飲み下し、首を傾げながら答える。
「マカ……?フシギ…だと?なんだそれは」
「知らぬ。コレを君に届けるかわりの駄賃だといわれた。甘かった」
「オマエのその答えじゃ全ッ然わからんがな」
たいして役にたたない回答を一言でぶった斬り、シュラはいぶかしげにもう一度シャカを見た。
神に最も近い男は、寝ている人間の口にいきなり指を突っ込むものなのか。
「まあもう私の腹の中なのでそれはどうでもよいのだよ。ところで受け取りたまえ」
そんな男から差し出されたのは、また。あの白い封筒だった。
「……でた」
シュラは咄嗟に独りごちる。不思議そうに首を傾げたシャカの手から取った。
「うむ。我慢は身体によくないとアイオリアが言っていたのだよ」
「そうじゃねえよ。我慢てなんだ我慢て」
「……我慢しないでいきたいときはいくがよいと」
「なんの話ししてんだオマエは。あーもうコレで用すんだんだろ?さっさと獅子宮に帰れ」
「私の宮は処女宮だ。断じて獅子宮ではない!」
怒りの沸点すらも、よく理解できない。そう思いながら、シュラが今にも目を開きそうな気配を追い払うように手をふれば、シャカは不機嫌も露わに眉を潜め、大人しく居住区から出ていった。下るかと思っていた小宇宙は予想外に階段を昇っていく。
その気配が遠ざかってから封筒をあけたところで、シュラはふと、誰に駄賃とやらを貰って届けるようにと頼まれたのか、問う事を忘れていたことに気がついた。
シャカが持ってきた封筒の中には、見る角度を変えると、緑にも紫にも青にも見える黒いポストカードがはいっていた。
まるで玉虫色を漆黒で塗り固めたような不思議な加工の施されているそれには、当然のように三文字目だけが刻まれていた。
――「m」だな
シュラは、そう思いながら手元に届いた三文字を声にだす。
「…l、e、m、…れむ?」
それに返事をする者は誰もいなく、一人きりの部屋で、なんともいえない軽い敗北感に包まれた。やっぱり謎に負けている。
黒いだけのポストカードの角度を様々にかえ、その変化をぼんやりと眺めながらシュラは考え込む。
思い返してみても、謝礼を贈られるような任務に、最近でた記憶がない。ここのところは、遺跡の調査やら、潜入捜査やら、直接外界の人間に関わるような類の任務をこなした覚えがなかった。
秘密の隠し部屋だとか、いかにも怪しい隠し扉だとか、はっきりとわかりやすいものが、シュラは好きだ。財宝もないのに、隠し部屋を作るようなトリックは嫌いだ。
「なんでオレだ?」
「どうしたんだ?シュラ」
独りごとに突然返事が戻ってきて、シュラは驚きで振り返る。シャカが去っていくらも経っていないというのに、気配すらも気付かなかった。
「無断で入って悪い」と申し訳なさそうに頭を下げた姿を見て、思考に囚われるあまり少しも研ぎ澄まされていない感覚を、内心で自嘲した。ごまかすように声を掛ける。
「ああ、いやなんでもないんだ。アイオリア。なにか用か?」
居住区の中へ入ってきたアイオリアは、何か確かめるようにきょろきょろと見渡した。
「シャカ、こなかったか?」
「ああ、さっきまでいたがどこかにいったぞ。上に昇っていったようだが」
「そうか。立ち寄ったのならいい。コレ、兄さんからシュラに渡すように頼まれたんだ」
「アイオロスから?」
そうして、アイオリアから手渡された封筒と、差し出し人の名前をシュラは受け取る。
「そうだ。シャカからも同じ封筒を受け取っただろう?もう一通届けてもらうのに渡すのを忘れたと兄さんが言ってた」
「これはアイオロスからなのか?」
シュラがもう一度、アイオリアに問う。この封筒は、アイオロスが送っているものなのかという意味を込めて。でも、アイオリアは、
「うん?ああ。だからアイオロス兄さんからシュラにだ」
と、どうして同じ事を聞くのかとでもいうような眼差しをシュラに向けて、こっくりと頷いた。
「いや、あのな、実は先日からオレのところにこの白い封筒が届いていてな。オレは差し出し人がわからなくて、」
「差し出し人?差し出し人は兄さんだろう。だって兄さんから渡せと言われたんだぞ?オレは。文通などもよいなと思っていた」
「文通……オレとアイオロスが?」
「ああ。いいじゃないか。今度文通する時はオレも混ぜてくれ!」
いや、どう考えたって違うだろうと、シュラは、斜め上をいく答えを返してきたアイオリアに言ってやりたかったが、至極嬉しそうな、満面の笑みを浮かべられて黙った。
純粋だ。
アイオリアの笑顔には、どこかの誰かのような含み笑いもにやり笑いでもない、心の底からそう思っている純粋さが滲みでている。
「そ、そうだな……その時は…オマエも一緒に…できたらいいな」
シュラは、アイオリアの一途で純粋な正直さに弱い。強いていうなら、アイオロスとアイオリアのそれはとてもよく似ているからだ。アイオリアは、シュラの言葉を聞いて、また眩しい笑みを浮かべ、居住区を出ていこうとした。
シュラは立ち上がって、扉まで送る。
「シャカは何時頃ここにきたんだ?今日は執務当番だっていうのに行かないから…オレが連れてくるように言われたんだ」
「アイツ執務だったのか。もうとっくに開始の時間なんて過ぎてんだろ」
「あれだけ寝る前にちゃんと行けよっていったのになあ。アルデバランとの手合せを中断させられた」
アイオリアの溜息は、先程こぼれた自分のものと同じもののような気がして、シュラは内心で同情する。
「……なあオマエ、いつも寝てる時、つっこまれてんのか」
幸せな眠りの真っ最中に、突然喉を突かれるあの指先の苦しみを思いだし、シュラはぼそりとアイオリアに問うた。
「ツッ!?…つ、つっこまれる!?…あ、いや…その、おッオレはつっこむほうなんだが…その、」
頬を一気に赤らめ、照れながら何故か初々しい反応を示したアイオリアを見て、シュラはまた呆れの溜息をつく。
なんとなく神に近い男とうまくいっていることがうっすら理解できたような気がした。
アイオリアの持ってきた封筒は、黒い山羊が手紙をむしゃむしゃと食べている写真のポストカードが入っていた。
これはからかいなのか、なんなのか。アイオロスのささいな悪戯なのかと思いながら黒い山羊を見ているうちにだんだんと真剣に考えるのも馬鹿らしくなってくる。
気の抜けた山羊の顔。右端の「i」の文字。
今日は人馬宮にいるようだから、とシュラはテーブルの上に散らかした中身のポストカードだけをざっとまとめて、居住区から出た。
一つ下の宮へ辿りつくまではいくらもかからず、シュラはアイオロスの気配がする居住区の扉をノックする。
しばらく待っても返事はない。
今まで磨羯宮に侵入してきた奴らのように入ってしまうかと扉を開く。
室内を覗けば、人馬宮のリビングの壁に沿って置かれている茶色の長椅子の上で、アイオロスは半裸のままで眠っていた。
足を踏み入れた扉から、長椅子まで点々と、靴や服や、執務の間纏っていたのだろう法衣が散乱している。
シュラは、部屋の有様に溜息をついて、それをひとつずつ拾いながらアイオロスの元まで向かった。執務を抜けだしてきたのか、昨夜からこの状態なのか。
シャカもアイオリアもこの状態を知っているのなら片付けてやればよいのにと思いながら、シュラはアイオロスを見下ろした。心地良く眠っているところに声をかける多少の罪悪感はあれども、そっと揺り起こす。
「……アイオロス。起きろ」
幸せそうに眠っていた顔が、ぐっと顰められて、薄ら目が開く。焦点の定まらない瞳が、薄眼の中でゆらゆらと揺れていて、シュラはもう一度アイオロス、と名前を呼ぼうとした。
「ちょッ!……オイッ!」
その瞬間、ぐわっとすさまじい衝撃に腰を絡め取られて、シュラは唸りながら態勢を崩す。
引き寄せる力に抵抗するように、シュラが長椅子についた腕を突っ張った瞬間、ボキッと背骨が盛大な音をたてた。
「…サガ…おはよう…朝から天使みたいだね」
ミシミシミシッとさらに響く己の骨の音を聞きながら、シュラはアイオロスが完全に寝ぼけているということを知る。
「待て!オレはサガじゃ……グフッ」
シュラは、両腕で完全拘束された中で必死にもがき抵抗をするも、寝ぼけているアイオロスは、まるで体温を求めるように、ぐりぐりと頬を押しつけてくる。
「いい匂いだよサガ…」
「だから!サガじゃねえっつーの!」
本当は起きているんじゃないのかと思えるほどの馬鹿力を疑いながら、シュラはアイオロスの上で暴れた。
毎回、寝起きにサガをこんな力で抱き締めているのか。
「ちょっ…マジ…死ぬ…」
息苦しささえ感じてきたシュラを尻目に、アイオロスはシュラの胸へ顔を埋める。甘えるように何度も頬擦りをしていたが、途中でぴたりと動きが止まった。
「ン…?…アレ?…サガおっぱい小さい…」
「だから、サガじゃないって…」
おっぱいってなんだ、と思いながらシュラはやっとのことで緩みはじめた腕の力に、がっくりと全身の強張りを解いた。
視線を感じて顔をあげれば、まだ眠りを残した青灰の眼差しが、不思議そうに見つめていた。
「あー、うん…シュラ、何してんだ…?」
「それはこっちの台詞だ…離してくれ」
「えーどうしようかな」
シュラが苦虫を噛み潰したような顔でそう告げると、アイオロスはふわりと寝ぼけ眼で笑んでから、解放した。
長椅子から立ち上がって、軋んだ骨を戻すように肩に力を込めると、また盛大な音がした。
アイオロスは、寝転がったまま起きる気配はない。
「起こしたのは悪かった。シャカとアイオリアからコレを貰ったから、」
シュラは、アイオロスに見えるようにポストカードを見せる。アイオロスは四枚のポストカードをじっと眺め、首を傾げた。
「なんだそれ」
「それはオレが聞きたい。アイオリアは貴方からだと言っていたんだ。どうしてこんなものを…」
「ああ…なんか、オレの執務の書類にオマエ宛の封筒が混ざっててさ…昨日渡そうかと思ったんだけど忘れてて…戻ってきたの夜中だったから」
アイオロスはそう囁きながらも、また瞼がうとうとと落ちかけている。ここのところ、忙しそうに教皇宮で執務をこなしてはいた。
ひとまず、アイオロスは届けてくれようとしただけであって、差し出し人ではない。シュラは、一歩近づいて遠ざかった謎に、肩の力が抜けた。
「わかった。眠いのに起こして悪かった」
「うん…?ああいいよ」
「混ざってた封筒は二通だけか?」
「たぶんな……」
アイオロスは、半ば眠りの淵からなんとか返事をする。
シュラは念のためと、拾い上げた服のポケットを漁ってみたが、なにもなかった。それを告げようとアイオロスを見てみれば、すっかり寝息をたてている。探すのに崩した服をたたみ直し、静かに居住区から出ようとした。
「……シュラ、寂しい?」
すっかり眠りに落ちたと思っていたアイオロスが、ふいに去る間際、声を掛けてくる。
「……なんでオレが寂しいんだ。寂しいわけあるか」
「本当はオレがあの任務行くはずだったのに忙しくて…ごめんな」
「別に貴方が謝ることじゃないだろう。聖闘士として当然のことだ。忙しいのを知っていて任務に行くのを拒むような奴だったらオレが許さない。それよりもゆっくり寝てくれ」
シュラが、ちらりと視線だけで振り返ってそう答えると、アイオロスは小さく笑って、また寝息をたてはじめた。
一枚目の、潔い白地の上を横切る、ぶれない直線。
二枚目の、懐かしささえ覚えるような、見慣れた壮大な山の風景。
三枚目の、黒一色に埋めつくされた下にある、無数の色。
四枚目の、見れば見る程気の抜けた黒山羊がうまそうに食べる白い封筒。
人馬宮から戻り、ポストカードに書かれた「l 、e、 m、i」の単語を様々な順番に並びかえ、一つの言葉を探そうとしても、意味のあるものは浮かんでこなくて、シュラは考えることをやっぱり手放した。
例えば、ここにカミュがいたとしたら、考えや意見の一つも聞くことができるのにと思わなくもない。
やはり、時間のかかる任務なのか、聖域に戻ってくる気配もない。
悶々と考えていても仕方がないと思って、それからシュラは、教皇宮に赴いて率先してアイオロスが抱えている書類の整理やら、手に余らせているシャカの執務を手伝って、一日を終えた。
寝室のベッドに潜り込んで、もう一度ポストカードを眺めてから眠りにつく。
静かな時間は、刻々と過ぎて、真夜中の時計が四の数字に届きそうになった頃、ふいにシュラは目を覚ました。すぐに喉の渇きを覚え、ベッドから抜けだして、キッチンへ行く。
水を飲んでいる最中、ふいに見知った気配があるような気がして、何気なくリビングの暗闇にライトを灯した。明るくなった室内にいきなり誰かがいたらそれはそれで驚くが、当たり前のように誰もいない。
ここのところ、あの謎の封筒が頭にひっかかっている所為で、気配に敏感なようで鈍っているような、自分自身に研ぎ澄まされていない感覚があることは間違いなかった。
まだまだ起床までに時間はある。もう一度、ライトを落としてベッドへ戻ろうと思った時、ふいに居住区の扉に挟まっている白いものが見えた。
シュラは足早に駆け寄って、恐る恐る白いものを引っ張る。
あの白い封筒だ。
それに残る微かな気配に息を飲み、中を開ける。
尾が魚の山羊の絵のポストカードだ。右端の「e」の文字を確認して、すぐさまシュラは裏を返した。
今まで、空白だった差し出し人の場所にサインがあった。
「C」のたった一文字と、この時間と気配で、思い当たるのは一人しかいなかった。
スウェットの寝間着のままだったが、夜中だから構わないと思ってシュラは、磨羯宮を出る。
肌に突き刺さりそうなほど澄み切った真夜中の空気は、冷たくて一気に目が覚めた。
誰もいない階段を昇り、途中でゆっくりと前を歩く背中を見る。月のない、おぼろげな星の光に反射する、久しぶりの揺れる赤の色。
気配で気付いているはずなのに、足は止まらない。だから、シュラは一気に階段を駆け昇って、躊躇いもなく腕を取った。
「……戻ったのか」
足が止まる。そっと振り返った顔を見て、聞きたいことも言いたいことも山のようにあった。
もう宝瓶宮の入口まで数段。
カミュは、先に足を掛けていた石段から降りて、シュラと同じ段に立つ。
「オイ、なんでこんな手紙なんか送ってよこすんだ。オレは意味がわからな、」
正面から向き合って、開いたシュラの唇へ、カミュはそっと人差指をあてて言葉を途絶えさせた。
今にも触れあいそうなほど、近付く唇。
でも触れず、囁くような一言。
「Tes levres sont plus douces que le miel.」
カミュの行動に、シュラはやや驚き、そして言の葉の意味がわからなくて、眉を潜める。
「……なんて言ったんだ」
そう返せば、カミュは薄く笑んだ。
「戻ってくるのが遅くなってすまなかったと。離れている間、私のプレゼントは楽しんでもらえただろうか」
「プレゼントだ?なんでオレが貰うんだ。貰うのはどちらかといえばオマエのほうだろう」
シュラは、カミュのさも嬉しそうな表情に憮然としたまま、それでも腰を引き寄せて抱き締めた。
「違うのだ。私はもう貰った。扉に挟んだ封筒の中身はみただろうか。わかりやすいようにヒントもだしたのだが、」
「ヒントだ?そんなものオレはわからなかった」
「うむ……そうか。クロワッサンとワインにマカロンではダメだったか」
駄目に決まっている。なに一つ自分の元には届いていない、とシュラは内心で舌打ちをして、溜息をついた。
だが、ヒントはもう、この際どうでもよかった。
「シュラ、宮へ入ろう。せっかくここまで来たのだから磨羯宮には戻らないで欲しいのだ」
怪訝につり上がったままのシュラの眉を見て、カミュはまた目を細め、階段を昇ることを促した。
もちろんシュラとて、ここまできて、自宮に戻るつもりなどない。
「……オレはオマエになにかをやった記憶がないんだが」
「離れていても、私は貴方の思考と心を奪っていた…と思っていたのだが」
カミュは、あっさりと腕の中で告げる。
その一言を聞いてますますシュラは意味がわからなくなって、ムッと唇を引き結んだ。
「よく意味が分からん。ちゃんと教えろ」
「では、ベッドの上でということでよいだろうか。私もそろそろ我慢ができない」
冷えた指先が、損ねた機嫌に甘えるように頬をなぞる。
シュラは、その手には騙されないと思っても、軽く触れてきた唇を拒むことはしなかった。
「Tes levres sont plus douces que le miel.」
「だから、それはどういう意味なんだと」
「……早くベッドへ行き、最後の封筒を貴方に渡したいという意味なのだ」
「……さっきと意味が違うだろうが」
謎ばかりに翻弄され、四六時中、心を奪われて、不貞腐れたようなシュラの一言をカミュは満足そうに聞いた。
「私もたまには貴方へ、愛の言葉をしたためたいのだ」
例えば、どれほど遠く、離れたとしても。
「Tes levres sont plus douces que le miel.」
(貴方の唇は、蜂蜜よりも甘い)