確約

2018カミュ誕


頭の先から爪の先まで、この身のすべてが清廉潔白であることは難しい。
気合の一声とともにシュラが放った拳は、柔らかな布を力任せに押すように、いとも簡単にふわりと避けられて、花が笑った。
「クソッ……なぜ避ける!?」
「お前よりも私のほうが強いからに決まってる」
聖剣を嘲笑う為だけに、花はわざわざその懐に飛び込んで囁き、振り払われるのと同時に闇の中へ気配を溶かした。
「カミュ!またあの馬鹿を逃した!ちゃんと援護しろ!」
シュラの苛立ち紛れの怒号が、静かな夜をさざめかせる。
日を重ね、追われる者と追う者の配置を変えて続く「共に闘う」という修行は、ついに黄金聖闘士同士で向き合うまでに進化していた。
「うむ。すまないシュラ」
カミュはできる限りの平静と、さも打ち取ることができなかった悔しさを滲ませることを心掛けながら、感情を演出する。
簡潔な素直さが功を奏したのか、シュラは一瞬戸惑ったように小さく息を吐き出して、行くぞと囁いた。
この夜の濃紺に紛れているのは八人だ。
デスマスクとアフロディーテを六人で追い詰める狩りで、ミロとアイオリアは頭上の木々の間から、ムウとアルデバランは虎視眈々と大地の影に身を潜めて、二人に狙いを定めているはずなのだが、初手から次の攻撃はいまだに続いていなかった。
次の闇に向かう半月は、ぼんやりとこの場に潜むものの輪郭を映しだすも、そこに人の形は見えない。
予想以上に、デスマスクとアフロディーテの回避能力が高いというのもある。
闇に紛れてある一つの任務を遂行することに慣れていると、鍛錬が始まる前にシュラがぼやくのを耳にした。
それはもちろん確かな事実であるのだろう。
この闇も、課せられた使命も、デスマスクとアフロディーテの独壇場であるという要素に加えて、あまりある理由を、カミュは知っている。
それは理由というよりも、交渉だった。
「……これはまったくもって弱音なんかじゃないが、それなりにアイツらはよくやっていると思う」
冷静なシュラの声は、カミュの胸の内に潜んでいる一抹の葛藤を、潔い白という色でくすぐってくる。
「……うむ、そうだな」
苦肉の策で絞り出した平然に違和感がないことを祈りながら、カミュは数日前に提示された密約を、反芻した。

―――次に、私かこいつが共に任務へ赴くことになったら、君と交代してあげる。それに執務も。だから、ねぇ。わかるだろう?

カミュ、と信頼が上乗せされて、さらに真摯で縁取った誘惑の笑みは、朝露を纏った花びらの美しさと同じで、拒むことを許さなかった。
それだけではない。
あえて鍛錬の手を抜けという交渉だけでなく、一刻も早く終わりがくるようにという用意周到な根回しまで囁かれたのだ。

―――絶対に、100%言い切れるが、オレ達二人を追うとなったら、シュラは絶対に一発目の斬り込みをしたがる。だからオマエは近くにいて、援護をすると思わせて攻撃のタイミングをずらしてくれればいい。適当に逃げたら合図をする。そうしたら木の根でも石ころでもなんでもいいから足元を取られたフリでもして、どうにかしてアイツの体勢を崩したりなんかしてくれたら、こっちが攻撃して終わりってことで…なぁ?

はじめから決裂を含んでもいない交渉は、穏やかな脅迫と変わりない。カミュは、取引に対して否とも可とも答えなかった。
「今、あの木の影で何か動かなかったか」
耳朶を掠める低い響きで、存外シュラが接近していることを知り、カミュは密約を思い返すことをやめた。
シュラの視線の先を追うも、神経を研ぎ澄ませていたのは獲物との交渉についてだ。
動いたかもしれない、という曖昧な返事には小言しか戻ってこないだろうと思いきや、ついに苛立ちに呆れてものも言えなくなったのか、それ以上シュラは口を開かなかった。
耳を澄ます。目を凝らす。
足元の枯葉が軋み、微かな息遣いが熱を生む。
確約をしたわけでもないのに、攻撃が重ならないのは、鍛錬の手を抜くという聖闘士としても黄金聖闘士としてもあるまじき不正の行為であるにも関わらず、心のどこかで、跳ねのけるのには強靭な意志が必要な、魅力的な取引だと感じている為でもある。
だが、それ以上にカミュは、彼らが断言し、予測した通りの動きでもって、シュラが二人を追っている事実が気に入らないとも思っていた。
シュラが悪友と認める者たちにとって、その思考はすべてが手のひらの上だ。
顔を見ずとも、意識をせずとも、それこそ目を瞑ったままでも、見透かして転がせる関係がまざまざと明らかにされている。
目についた糸玉を転がす程度の感覚で、いとも簡単に互いの思考と嗜好を理解することができるだけの時間を、シュラと彼らは過ごしている。
だからこそ、カミュはシュラの知らない、デスマスクとアフロディーテとの密約を飲むか否か、いっそ飲んでやろうかとさえ思う上の空で、連携は途切れていくのだった。
結局、シュラが斬り込んでも次がないのだから、他の四人はそろそろ痺れを切らしていることだろう。抗議の一つでも頭上から飛んできそうだとカミュが目線を走らせると、その視界の隅で、一瞬の淡い光に反射する黄金色があった。
それは間違いなく取引開始の合図だった。
ともすれば他の誰かが気づくのではと思うような輝きであったのに、シュラは動かない。
他の誰も動かない。
知っているのは彼らと自分だけだ、とカミュは思う。
密約は否か、可か。
答えを出すのに、息が詰まるほどの時間は、なかった。
「……っ………、」
ふいに髪を引かれた感触のあとすぐに、唇には乾き、かさついた柔らかなものが触れて、一呼吸の間に離れていく。
触れたものの正体に悩むこともないのは、今この現状でよいことなのか悪いことのなのか、わからなかった。
「なぜ、……このような状況の時に」
「月が動いて夜も深けた。……もしや、お前は気づいていないのか?」
「気付くとは?」
シュラは薄闇の中で、ゆったりと唇を歪めた。
「狩りが終わったら理由を教えてやる」
「……それは貴方との密約だろうか」
なんだそれは、という声を耳にしながら、カミュは微かな合図が光った方角を見る。
「シュラよ。その木の影に私達の獲物は……いる」
やはり全てが清く無欲に潔く、正しくあるのは、難しいことなのだった。